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6割が職場トラブルの経験あり
日本法規情報は、全国の男女を対象に「何らかの職場トラブルで悩んだことはあるか」についてアンケート調査を実施した。調査は3月1日~31日にかけて行い、651人から有効回答を得た。
何らかの職場トラブルで悩んだことはありますか?
何らかの職場トラブルで悩んだことはあるか尋ねたところ、「職場トラブルに遭ったことはない」と回答した人が37%に留まり、63%は「何らかの職場トラブルに遭ったことがある」と回答した。
職場トラブルの内容で最も多かったのが「上司との関係」(21%)だった。次いで「同僚との関係」(18%)、「部下との関係」(16%)、「残業代の不払い」(14%)となっている。「パワーハラスメント(パワハラ)」「セクシャルハラスメント(セクハラ)」(各10%)、「解雇 派遣切り」(8%)というトラブルも挙げられた。
職場トラブルの具体的な内容
具体的な内容について聞くと、「上司の露骨な無視」「覚えのない噂話を流された」「部下に注意したら会社に来なくなってしまった」といった人間関係のトラブルや、「残業代が上がらない」など残業に関するもの、「上司から毎日飲みにいこうと誘われる」「職場の邪魔、と上司に言われるようになった」など、パワハラ・セクハラに関することが寄せられた。
<南アフリカ>ケンの思い出 ── 高橋邦典フォト・ジャーナル
「こんちくしょう、そこどきやがれ!」
朝日に照らされた、オレンジ色の地面に横たわる屍体を広角レンズで撮ろうと近づいた時、突然後ろから罵声が飛んできた。
「写真が台無しになったじゃないか!」
1994年3月、南アフリカ史上初の全人種参加選挙を前に、政党間の暴力抗争は激烈化。毎日のように犠牲者が出るほどになっていた。僕に向かって声をあげたのは、南アフリカを代表するニュースカメラマンの一人、ケン・ウースターブロクだった。彼が望遠レンズで後ろから写真を撮っていたことに気づかずに、僕は彼のフレームに入り込んでしまったのだ。
その日、市内に戻ってからケンがすこし気まずそうに近づいてきた。
「さっきはすまなかったな。写真のことになるとつい熱くなっちまうんだ」
僕らは地面に腰をおろして少しばかり話をした。カメラマンになったいきさつを尋ねた僕に、彼は答えた。
「俺は白人に生まれたけど、 警官達が黒人達をぶん殴ったり蹴飛ばしたりしてるのをみて、この社会は腐ってる、って思うようになった。この国でおこってることをすべて見たかったんだ。カメラマンなら何処だっていけるし、タウンシップで何がおこってるか現実を伝えたかった」
1994年3月 Copyright (C) Kuni Takahashi. All Rights Reserved.
これから一週間も経たないある日、突然の悲報が届いた。ケンの死の知らせだった。タウンシップでの銃撃戦を撮影中に撃たれたという。皮肉にも彼が食らった弾は、平和維持軍によるものだったらしい。妻と幼い娘を残し、ケンは32歳の短い人生を終えた。
僕の手元にはいまも、一枚の写真が残っている。一緒に撮影に出かけたときに、草むらで用をたすケンをふざけて撮ったものだ。
「こんなところを撮りやがって!」
こちらを振り向いたケンは、いまも笑い続けている。
本記事は「THE PAGE」から提供を受けております。
著作権は提供各社に帰属します。
待機児童ゼロ「継続的に」、川崎市初
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神奈川県川崎市の今月1日時点の保育所の待機児童数が、ゼロになった。
昨年同期は62人いたが、定員拡大や空きが出た認可保育所などを紹介するマッチングに力を入れた。ゼロ達成は、統計がある2000年度以降初。待機児童解消を公約に掲げていた福田紀彦市長は23日の記者会見で、「一人ひとりに丁寧に対応してきた成果だ。今回の解消はゴールではなくスタート。継続的に取り組みたい」と述べた。
市の発表によると、認可保育所の利用を申し込んだのは過去最多の2万5264人。入れなかった子どもは2231人いたが、厚生労働省の定めた基準に従い、市独自に取り組む認可外の「川崎認定保育園」への入所者や特定の保育所希望者らを除くと、待機児童はいなかった。
川崎市の待機児童数は、ピークが10年の1076人で、横浜市(1552人)に次ぎ、全国ワースト2位だった。以降は、認可保育所の新設などにより年々減ったものの、12年(615人)と13年(438人)は連続で県内ワースト1位となった。
川崎市は待機児童対策を最重要課題の一つに掲げて13年12月、待機児童ゼロ対策推進本部を設置。受け入れ枠拡大や保育所の民営化、人材確保を進めた。14年1月からは全7区に専門の担当者を配置、相談支援やマッチング作業にあたっている。
今年度は認可保育所と認定こども園の新設や増員により、32か所で定員を計2180人増やした。新たに小規模保育事業所を4か所整備、地域型保育事業も充実させた。また、川崎認定保育園に通う児童の家庭には、月額で最大2万円の補助制度がある。
ただ、市子育て推進部は「待機児童解消後は保育所に入れるという期待感がある。転入者が増え、新たな需要を掘り起こし、当分の間は利用申請者数が増え続ける」と想定。来年度は認可保育所の整備などで定員を1480人増やす。
福田市長は今月1日時点での待機児童解消を目指していた。達成したことについて、「職員一丸となった取り組みが実った。今後も保育所整備や補助を継続し、安心して産み育てられる街を目指す」と語った。
人材確保が課題
児童の受け入れが増える中、保育所では保育士らの人材確保が課題になっている。
認可保育所「ひよし保育園」(幸区)は、今月から民営化した。定員を10人増やして70人にしたが、5歳児以外は埋まっている。
泉田美恵子園長(56)は「大学や短大などに保育士と看護師の求人を100件以上出したが、反応はなかった。最後はつてを頼って採用した」と話す。開園時間も1時間半長くした。東京都内に通う保護者も多く、好評だという。(樽田直樹)
ネット会議で被爆体験伝える、ハーバード大生に
- ピースネットでハーバード大生に被爆体験を伝える山脇さん(左)
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長崎市の被爆者山脇佳朗さん(81)が23日、同市の国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館で、インターネットを通して米ハーバード大の学生約30人と交流し、被爆体験を伝えた。
同館では2004年度から、インターネット会議システム「ピースネット」の運用を始め、これまで約270回実施。被爆地を訪れる機会がない海外や国内の遠隔地の子どもや学生の学校などと同館を結び、被爆者の講話や意見交換を行ってきた。
同大と行うのは今回が初めて。学生たちは、同大ライシャワー日本研究所の客員教授による講義「日本と原爆」を受講しており、事前に長崎原爆の被爆者林京子さんの小説などを読んで臨んだ。
山脇さんは11歳の時、爆心地から約2・2キロの自宅で被爆。爆心地近くで技師として働いていた父親(当時47歳)を失った。被爆時の状況や、帰宅しない父親を捜した際に見た多くの亡きがらの様子などを英語で伝えた。父親の遺体を兄弟3人の手で火葬した時のことについては「耐え難くなって、その場を離れた」と振り返った。そして、「原爆はどんな戦争でも使われてはいけない残酷な武器。地球からなくすために、核保有国の若者に立ち上がってほしい」と呼び掛けた。
学生から「現在も被爆者の多くがアメリカを憎んでいるか」と質問されると、山脇さんは「政府や科学者は許せないが、一般の人たちには親愛の情がある」と答えた。このほか、学生からは「原爆には反対だが、投下により何百万の命が救われたと主張する意見も依然根強い」「核兵器は何があっても許されないと感じた」などの意見が出た。
じっくりと日記をつけよう
子育てが一段落、あるいは退職後に時間ができてから、毎日の出来事をじっくり記録しようと日記を愛用するシニアは多い。
約200種類の日記を販売する文房具店の伊東屋(東京)によると、同店で日記帳を買い求めるのは中高年層が中心で、近年の傾向として、健康管理やガーデニングなど、一つのテーマに特化した日記が売れ筋だという。
正確な統計はないが、日記帳を作る老舗出版社・博文館新社(東京)の推計では、日記帳は年300万冊、ビジネスダイアリーなどを含めると1000万冊程度が流通しているという。同社のロングセラーは3年間使える連用日記で、同社の大橋一弘社長(80)は「『書き続けることが生きがいになっている』という便りを年3万~4万通は受け取る」と話す。
伊東屋の中村里佳さん(45)は「『新年度から』と肩ひじを張って始めると挫折する。日付があらかじめ記載されていない日記帳などで、気楽に書き始めてみてはどうでしょう」とアドバイスしている。