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<選抜高校野球>糸満、沖縄戦時の島田知事母校と練習試合

 <選抜高校野球>糸満、沖縄戦時の島田知事母校と練習試合

 第87回選抜高校野球大会に出場する沖縄県糸満市の糸満高校野球部が、太平洋戦争末期に沖縄県知事を務め沖縄戦で消息を絶った島田叡(あきら)さんの母校、兵庫高校(神戸市)野球部と、開幕5日前の16日に神戸市で練習試合をする。島田さんは官選知事として米軍上陸直前に死を覚悟して赴任し、県民の疎開に尽力した。試合を企画した糸満高校の上原忠監督は「戦後70年の節目に甲子園出場が決まり、島田さんの思いを生徒たちに伝えるチャンスだと思った」と話している。【川上珠実】
 
  「周囲の反対を押し切って沖縄に赴き、県民の命を守るために奔走した方でした」。両校の初対戦となる練習試合を前に、2月27日、糸満高校の前新出(まえあら・いずる)校長は部員約70人に島田さんの人柄や功績を説いた。
 
  島田さんは現在の神戸市出身で、東京帝大卒業後、内務省に入省。戦況悪化で前任の沖縄県知事が本土に出張したまま戻らず、当時大阪府内務部長だった島田さんに後任の打診があった。周囲は反対したが、米軍上陸2カ月前の1945年1月、赴任した。「死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれとは言えない」とほほ笑んだという逸話が残る。自ら台湾に渡って県民の食料を確保し、住民の県北部や九州への疎開を進めた。
 
  4月の米軍の本島上陸後は地下壕(ごう)を転々として執務した。だが同年6月26日、沖縄戦の激戦地となった糸満市の摩文仁(まぶに)の丘で消息を絶った。43歳だった。遺体は見つかっておらず、今も追悼団体による遺骨収集が続いている。
 
  県民のために尽力した島田さんを沖縄県民は戦後も慕い続けた。中学から大学まで俊足巧打の外野手で鳴らした島田さんの名は、今も高校野球の夏の新人大会の優勝杯「島田杯」に残る。
 
  練習試合は糸満高校の申し出を兵庫高校の石井稔校長が「島田さんの縁で同じ白球を追いかける高校生が交流し、足跡を少しでも思い出してもらえれば」と快諾した。
 
  少年警察官として17歳の時に地下壕で島田さんと過ごした沖縄県浦添市の上原徹さん(86)は、国のために死ぬのが当たり前とされた時代に「体を大事にしなさいよ」と紙に包んだ黒砂糖を手渡されたことを覚えている。「沖縄が日本から見捨てられた中、同胞として扱ってくれた。島田知事が示した手本を若い世代が受け継いでほしい」
 
  戦没県職員を追悼する財団法人「島守の会」の島袋愛子事務局長(67)は「若い世代の交流はうれしい。命をかけて県民に尽くした生き方を知って将来の道しるべにしてほしい」。糸満高校野球部の比嘉海斗選手(2年)は「平和で大好きな野球ができる生活の大切さを感じた。しっかりと戦争の悲惨さを語り継ぎたい」と語った。
 
  練習試合は16日午後2時半、神戸市北区のあじさいスタジアム北神戸である。

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