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日本行きスイスで熱望…春香クリスティーンさん
タレント
- 春香クリスティーンさん(沼田光太郎撮影)
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日本の高校に2年生で編入するまで、スイス人の母と、日本人の父とともに、スイスのチューリヒで暮らしていました。
小学校高学年の時、旅行で来た東京。コンビニがあってとても便利でした。スクランブル交差点なのに、人がぶつからないのにも驚き、日本への関心が増し、日本で暮らしたいと思いました。その後、ギムナジウムという中高一貫の公立学校に進み、日本への思いをさらに募らせました。
ちょうど、インターネット環境が整ってきた頃で、家では日本のブログや掲示板をずっと見ていました。同年代の子が、部活の先輩後輩関係に悩んでいたり、恋愛話をしていたり。本当はスイスにいるのに、日本にいるふりをして掲示板に書き込んだこともあります。
学校では、くらーい子でした。すぐに「ごめんなさい」って謝っちゃうんですよ。友達からは「謝るくらいなら、前向きに行動して」って怒られることも。日本人的なところが強かったんでしょうか。なんか、合わなかった。日本に行きたいという思いが強くなりました。
あまりに日本に行きたいという私に対し、親は漢字検定や日本語検定、英語の資格、学校の成績を落とさないなど、条件を出してきました。それをクリアできないと日本に行けない。漢字検定3級は何度も挑戦してようやく受かりました。ねばり強さが身につきました。
今はタレントとして仕事をしていて、地方に行くことも多いです。ほとんどの都道府県に行ったと思いますよ。今まで見えなかった日本の姿を知ることができ、とても楽しいです。思いを募らせ、ようやく来ることができた日本をもっと深く知りたいと思っています。(聞き手・山田睦子)
プロフィル はるか・くりすてぃーん 1992年、スイス・チューリヒ生まれ。2008年、来日。その後、日本の大学に入学した。2月にPHP新書「ナショナリズムをとことん考えてみたら」を出版した。
(2015年3月26日付読売新聞朝刊掲載)
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「報道メモ」「リーク情報」「夜討ち・朝駆け」── 事件報道の現場 その実態と課題は?
[写真]栃木県で起きた幼女連続殺害の「足利事件」の犯人とされた、冤罪被害者の菅家利和さん。無実の罪を着せられ、逮捕時、マスコミから完全に犯人扱いされ、「幼女趣味」など事実と全く違うことを大報道された(Natsuki Sakai/アフロ)
川崎市で起きた中学1年生の男子生徒殺害事件、兵庫県淡路島の男女5人が殺害された事件。最近も耳目を集める凄惨な事件が続いています。大きな事件が起きると、テレビも新聞も事件一色になりますが、現場ではどんな取材が行われているのでしょうか。報道に問題はないのでしょうか。
「報道メモ」とは
マスコミで事件取材を担当するのは、社会部(会社によって「報道部」「報道センター」などの呼び名もある)の所属記者です。社会部はその名の通り、森羅万象の社会現象を守備範囲としており、その中に「警察」「事件」を担う記者たちがグループ化されています。読売新聞や朝日新聞といった大手紙になると、東京本社だけで担当は20〜30人にもなるようです。
事件記者はどうやって、事件を知るのでしょうか。
一つは警察側の公式発表で、たいてい「報道メモ」という名の発表資料を警察側が記者クラブに提供することで始まります。通常、A4判1枚。容疑者逮捕の場合、報道メモには「所轄署の名称」「逮捕日時」「容疑(適用法令)」「被疑者名」「被害者名」「容疑の概要」などが記されています。大きな事件や事故、火災、遭難などが起きると、容疑者逮捕や事案の詳細が分かっていなくても、間を置かずに「報道メモ」が出ることがあります。大都市を抱える都府県警では1日に数十件の報道メモが出ることもあります。
ただ、「発表する・しない」は警察側の判断ですから、全ての逮捕・発生が公になるわけではありません。また、報道メモの提供は記者クラブ加盟のマスコミに限られ、雑誌記者やフリー記者は直接手にすることはできません。
公式発表以外では、どうやって情報をキャッチしているのでしょうか。
事故や街頭での犯罪など「発生もの」では、まず「市民からの連絡」があります。「パトカーが何台も走っている。どこで事件ですか?」といった読者や視聴者からの問い合わせで察知する形です。
マスコミ各社が契約しているタクシー会社などから「事件があって緊急配備が敷かれている」といった連絡で知るケース、さらには親しい警察官や消防士、被害者が運び見込まれた医療機関などからの非公式な連絡、消防無線の傍受、新聞販売店関係者からの通報といった形で発生を知るケースもあるようです。
「リーク情報」で勝負する実態
事件取材の一番の問題は「捜査機関への非公式取材」に潜んでいます。
捜査情報を非公式に記者に伝えることは、国家公務員法・地方公務員法などに違反するため、捜査機関は表向き、捜査情報の伝達を厳禁しています。とくに検察組織の厳しさは有名です。地検の場合、報道対応の職務は一部の幹部に限定していますが、記者が禁を破って一線の検事らに接触したことが分かれば、記者は「出入り禁止」となり、公式の報道対応もしてくれなくなります。
かといって発表のみに頼っていると、捜査の実情は見えてきません。そのため多くの記者は独自情報を得ようと、夜間に捜査幹部の自宅などを訪れる「夜回り・夜討ち」、それを朝に行う「朝回り・朝駆け」に傾注します。言い換えれば、「リークしてもらう」ことにしのぎを削るわけです。
川崎市の中学生殺害事件でも分かるように、大事件が発生した当初は大々的な報道が続きますが、そのほとんどは、こうした「リーク情報」に基づくと言っても過言ではありません。
相手が帰宅する深夜まで電柱の陰で何時間も立って待った、捜査員の自宅をひと晩に4軒も5軒も回った、人間関係を作るため飲めない酒もとことん付き合った──。そんな経験はほとんどの事件記者が持っています。セクハラまがいの行為に耐え忍ぶ女性記者も少なくありません。それもこれも「リークしてもらうため」と言えるでしょう。
「リーク」の問題点とは
事件報道の中核を成す「リーク情報」は大きな問題を抱えています。
まず、夜回りなどで得た情報の信用性です。記者は逮捕された被疑者に直接接触できませんから、リーク情報は捜査機関からの一方通行です。「対立する双方を取材する」は報道の大原則ですが、マスコミに協力的な弁護士がいる場合を除き、事件報道ではこの大原則が成り立っていません。被疑者側に無理に接触しようとすると、捜査妨害にもなりかねません。
従って、捜査当局が自らに都合の良い情報を流し続けた場合、誤った事件像が流布される恐れがあります。かつて栃木県で起きた幼女連続殺害の「足利事件」は冤罪だったことが後に判明しましたが、無実の罪を着せられた男性は逮捕時、マスコミから完全に犯人扱いされ、「幼女趣味」など事実と全く違うことを大報道されました。松本サリン事件や袴田事件など、似たような事例はほかにもたくさんあります。
有力紙のベテラン記者は言います。
「足利事件みたいな大事件に限らず、逮捕直後に報道しまくった内容が裁判で全く出なかったとか、違っていたとか、そんな経験は誰にでもある。警察だって間違うことはあるし、最初は事件の全体像は見えていないのに、初期の段階であやふやな情報を大報道することに問題がある。それは分かっているけど、他社との競争に負けたらバッテンが付く。正直、事件が多いから振り返る暇もないし、判決が出るころには異動していてその場にいないし、そのうち過去の失敗は忘れてしまう」
もっと明白な「意図的リーク」もあります。
政治家が絡む贈収賄事件でしばしば見られるように、大事件の捜査では「家宅捜索に入る捜査員」の映像が流れます。証拠隠滅の恐れがあるため、強制捜査の着手時期は本来極秘情報のはず。それなのになぜ、事前にカメラの放列ができているのでしょうか。
理由は簡単です。東京地検を担当した経験を持つ別の記者の話。
「事前に幹部が『週明けはお前、休むなよ』などと耳打ちしてくれたり、『明日ですね?』と夜回りでぶつけて感触を得たり。多くの社が居るオフレコ懇談会の場であからさまに教える警察幹部もいました。向こうもPRしてほしいから、その点は持ちつ持たれつです。テレビはカメラや音声など人の手配が大掛かりになるので、記者クラブ内の他社の動きの慌ただしさで着手日を察知したこともあります。その場合だって他社は捜査側から情報を得ているわけです」
減る事件、増す報道の歪み
1980年ごろまでは、記者が刑事部屋にふつうに出入りし、その横で参考人が聴取されている、といった風景も日常的でした。現場取材で非常線の内側に入り、鑑識捜査員の脇で取材することもあったようです。人気を博した古いテレビドラマ「事件記者」の世界です。「マスコミが捜査側と一緒になって犯人捜しをしたり、容疑者を極悪人に仕立てあげたりする風潮はこの時代に出来上がった」と言う研究者は少なくありません。
こうした状況が変わったのは、30年ほど前からです。捜査機関側の情報管理は厳しくなり、日中から記者と捜査関係者が堂々と接触することは困難になってきました。庁舎セキュリティーも格段に向上し、受付までしか入れないことも珍しくありません。
それらと並行して、事件報道の背後では大きな二つの社会的な変化がありました。一つは事件そのものの激減です。実は、日本では殺人・強盗殺人・強盗などの凶悪事件は、相当前から減少局面に入っています。ここ数年は毎年、刑法犯は史上最少を更新し続けています。「件数は減ったかもしれないが、少年の凶悪犯や無差別事件は増えたのではないか」といった指摘もありますが、犯罪学の専門家らの研究では、戦前や終戦後もこうした犯罪は相当数あったようです。
もう一つの変化は、高度情報化社会の到来です。犯罪報道はかつて、よほどの事件でない限り、全国紙の地方版や地方紙、ローカル局などの範囲にとどまっていました。ところが、インターネットなどの発達によって、遠い地方の事件も全国各地で知ることができるようになり、国民が犯罪を身近に感じるようになってきました。最近の総理府調査などを見ると、日本の治安に不安を感じる国民が多い一方、自らの近隣では治安に不安を感じない、という傾向が顕著になっています。警察庁は1990年代初めごろから、これを「体感治安」という言葉で表すようになりましたが、実態と意識がかけ離れているのかもしれません。
そうした変化にもかかわらず、マスコミの姿勢が変わっていないことも問題でしょう。以前と同じように大人数を事件担当記者として配置し続け、「犯人捜し競争」「犯行の態様報道競争」に狂奔するわけですから、事件現場や関係者宅に大勢の記者が押しかけ、多数のマイクを突きつけながら歩く。そんな「集団的過熱取材」(メディア・スクラム)は近年、いっそう激しくなってきました。
マスコミ関係者の中には「ネットで犯人捜しが行われたり、少年の実名がさらされたりする。狂奔しているのはネットの背後にいる不特定多数の人たちではないか」との声が少なくありません。しかし、そうだとしても、警察に優先的にアクセスできるマスコミの取材が、大げさであったり、不確かであったりする点は、マスコミ自身が検証しなければならない課題です。
犯罪報道は本来、事件が起きた背景や病理を粘り強く、広範に取材し、不幸な事件を少しでも減らしていくことが目的です。捜査機関に誤りがないかどうかをチェックするのも重要な役割です。そのためには法律の専門知識、捜査機関に関する制度や権限の研究、人権意識などが欠かせません。日本のマスコミの事件担当は、新人記者など若い記者が多く配置されているのが特徴ですが、本当は異動も減らして経験豊富な専門記者の領域とし、初期の集中豪雨的な報道ではなく、「検証」重視の内容に変えていくべきかもしれません。
本記事は「THE PAGE」から提供を受けております。
著作権は提供各社に帰属します。
共存か激突か ── 最終決戦「大坂の陣」までの軌跡を辿る「豊臣と徳川」展
[写真]豊臣秀吉と徳川家康の肖像画を前に、両家のかかわりを振り返る跡部信主任学芸員=大阪市中央区の大阪城天守閣
大坂の陣400年記念特別展「豊臣と徳川」が、大阪市中央区の大阪城天守閣で開催されている。豊臣、徳川両家は激突するしかなかったのか。共存は不可能で、豊臣家の滅亡は回避できなかったのか。豊臣と徳川の最終決戦に至るまでの軌跡を振り返ることで、大坂の陣の意義をより深くとらえることができそうだ。
意表を突く秀吉の人身掌握術
[写真]重要文化財「三河物語」下巻(個人蔵)
織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変(1582年)から、関ヶ原の戦い(1600年)を経て、大坂夏の陣(1615年)に至る30数年間を、連続した時間のつながりとしてクローズアップ。信長亡き後の覇権を争う豊臣と徳川の関係性の変遷を時系列で分析し、どんな経緯で大坂の陣へ突入したのかを、貴重な史料で辿りながら検証する。
徳川家が豊臣政権下での安泰を望んだ時期もあれば、豊臣家が徳川政権下で存続を模索した時期もあった。「対立と臣従」「豊臣政権の中枢にいた家康」「秀吉の死と関ヶ原合戦」「緊張と融和の戦間期」「激突大坂の陣」の5つの時代に分類し、展示が構成されている。
信長の後継者争いに一歩先んじた秀吉は1586年、家康に服属のしるしとなる上洛を求める。その際、家康が上洛を承知したのは、秀吉が母の大政所を人質として家康側に差し出したからだと言われてきたが、家康直臣が書きつづった「三河物語」によると、真相は違う。
家康の上洛の意志を確認した秀吉が、「あなたも不安だろうから、こちらも人質を出しましょう」と提案したという。跡部信大阪城天守閣主任学芸員は「秀吉は家康に対して優位な立場にあった。『母を人質に』は意表を突く演出で、家康は『それはありがたい』と受けざるを得ない。秀吉一流の人心掌握術だった」と読み解く。「対立と臣従」時代のワンシーンだ。
決戦へ導く「秀頼の成長」と「家康の老い」
[写真]秀吉が関東の紛争調停を家康に命じた「豊臣秀吉書状」(岐阜・森俊郎氏蔵)
翌87年、秀吉が関東の紛争調停を家康に命じた書状が残る。秀吉が九州攻めに出陣する際、駿府に留まっている家康に対し、北条氏と周辺領主たちとの紛争を調停し地域の混乱を鎮める大役を任せたものだ。「対立と臣従」期から「豊臣政権の中枢にいた家康」期へ移行するが、この時点でも秀吉優位は動かない。
「秀吉が家康を政権の中枢に迎え入れたようにみえるが、いつ失脚させられるか分からない家康こそ、必死。家康を取り込んで押さえつける秀吉のしたたかな戦略だ」(跡部主任学芸員)
98年、秀吉死去。その直後に書かれた石田三成自筆書状が展示されている。秀吉が定めた五大老五奉行体制の下、奉行の三成が大老の宇喜多秀家に対し、大老首班の家康邸で開く合同会議への出席を促す内容だ。家康の存在感が増大しながらも、秀吉の遺言に従い、合議制が守られていた実情をうかがいしれる。
秀吉ゆかりの実力者前田利家が、家康とともに実質的には二大大老の重責を担っていたが、利家の死去に伴い、家康のワンマン体制へ。1600年、家康は関ヶ原の戦いを仕掛ける。家康は秀吉の遺児秀頼を守るための聖戦として、豊臣恩顧の大名たちに徳川方への結集を呼びかけ勝利した。
関ヶ原の一戦後、豊臣、徳川の両陣営で、対立しつつも共存の道を探るための駆け引きが続く。しかし、決定的な問題が徳川を襲う。「秀頼の成長」と「家康の老い」だ。
「秀頼は祖父である浅井長政から立派な体格を受け継ぎ、父秀吉譲りの人当たりの良さで人望が厚い。家康は自身が死んだら天下の実権を秀頼に奪われかねないと焦りを強め、徳川幕府の継続安定を求めて、豊臣との最終決戦に臨むことを決意した」(跡部主任学芸員)
もうひとつ別の歴史があったかもしれない
[写真]真田幸村の遺品とされる「采配」(越葵文庫蔵)
大坂の陣の豊臣方を代表する武将、真田幸村。夏の陣では家康本陣を攻めたて、家康を慌てさせたが、力尽きで戦死。徳川方からも「日本一のつわもの」と称賛されるほどの奮戦ぶりを示した。幸村の遺品とされる「血付きの采配」が出展されている。
「大坂夏の陣図屏風」。5000人を越える人物を描き込む。両軍の兵士のほか、逃げ惑う町民らの姿も。圧倒的な臨場感にあふれ、来館者が熱心に見入っている。
「400年前、大坂城は歴史が転換する舞台になった。あざなえる縄のごとく、さまざまな可能性を秘めて進行したため、もうひとつ別の歴史があったかもしれない。迫力ある史料を参考にしながら、歴史の奥深さやおもしろさを味わってください」(跡部主任学芸員)
5月8日が大坂夏の陣終結からちょうど400年だ。
会期は5月10日まで。開館時間午前9時~午後5時(~4月5日は午後7時まで、同25日~5月10日は午後6時まで延長)。入館料大人600円(中学生以下無料)。詳しくは大阪城天守閣の公式サイトで。
(文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)
地図URL:http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.68674526000002&lon=135.52744724999997&z=16
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有効な質問、選考にプラス
- イラスト・大倉千登勢
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会社説明会やOB・OG訪問などで社会人と接するとき、みなさんは「有効な質問」ができていますか?
単に話を聞くだけでなく、質問をして有益な情報が得られれば、会社選びに役立ちます。
では、どんな質問が有効なのでしょうか。社員は知っているけれども、求人情報には載っていない具体的な情報を聞いてみるのです。例えば、新規の事業について、「それは実際、どのように進んでいますか」と聞けば現状がわかります。
求人情報の「求める人物像」に「チャレンジ精神のある人」「成長する人」などと漠然としか書いていない場合、「御社で優秀だと言われる若手社員はどんな人ですか」と質問すれば、社員ならもっと具体的に答えてくれるかもしれません。
「なぜ、この会社に入社しようと思ったのですか」と聞くのもいいでしょう。その社員も同じ業界や企業を検討していた可能性があり、参考になります。
本質的で鋭い質問は、相手に好印象を与え、その先の選考にプラスになることもあります。一方、調べれば簡単にわかること、相手に失礼な質問は評価を下げます。言い回しにも気をつけてください。「仕事にやりがいはありますか?」などは、率直すぎるイメージを与えます。「仕事にやりがいを感じる瞬間は、どんな時ですか」なら印象はよくなります。
質問すべき点を事前に整理しておくといいでしょう。有効な質問は内定に一歩近づきます。(人材コンサルタント)
(2015年3月24日の読売新聞朝刊に掲載)
「農サポスーツ」起業…来秋にも商品化
- 開発された装着型ロボットを身につけ、重い物の持ち上げを実演する和歌山大の研究者(和歌山市の和歌山大で)
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農家の人が作業する際の腰の負担を軽くする装着型ロボット「パワーアシストスーツ」を開発した和歌山大特任教授の八木栄一さん(66)(知能機械学)が、大学発のベンチャー企業「パワーアシスト インターナショナル」を和歌山市の同大キャンパス内に設立した。
同社は来年10月にも1体100万円程度でロボットの販売を始めることを視野に入れている。(矢沢慎一)
会社はキャンパスの産学連携・研究支援センターの事務所に置き、社長を八木さんが務め、社員は当面いない。同大システム工学部の研究者らが八木さんの研究をサポートする。研究費は5年前から続く農林水産省の補助金などを活用する。
八木さんが2013年に開発したロボットは重さ7キロで、ベスト、手袋、靴に入れる靴敷きなどから成る。それぞれのセンサーが、体にかかる圧力の変化や関節の曲がり具合を感知し、腰に付けたバッテリー駆動のモーターが反応し、体の動きを補佐する。実際よりも10キロ程度、軽い感覚で作業できるのが特徴だ。
収穫した農作物など重い荷物を持ち上げる際、モーターが腰の動きをサポートして体の負担が少なく、収穫作業や草刈りで長時間かがむ場合は楽な力で姿勢を維持できる。足の動きも推測し、急傾斜地の段々畑での歩行も助ける。
10年ほど前、県内の農家から重い荷物の持ち運びが大変との声を聞き、八木さんはロボット開発を開始。県内の機械、電子部品メーカーに依頼して試作を繰り返し、当初は約40キロあったロボットの重さを6分の1にまで軽量化した。
八木さんは今後、農業機械メーカー「ニッカリ」(岡山市)と協力し、ロボットの量産化を目指す。和歌山、三重、香川、徳島、山口など13県で農家の人にロボットを試してもらうことでも話がついているという。
八木さんは「全国どこでも農作業の現場では高齢化が進むが、このロボットを高齢者を支援する『第二の腰』として普及させたい。和歌山発の技術が日本の農業を守る助けになればうれしい」と意気込んでいる。