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【悲劇】元JR職員に取材! 鉄道事故の裏側を漫画化した『鉄の慟哭』が衝撃的!佐藤秀峰率いる漫画誌『マンガ on ウェブ』

【悲劇】元JR職員に取材! 鉄道事故の裏側を漫画化した『鉄の慟哭』が衝撃的!佐藤秀峰率いる漫画誌『マンガ on ウェブ』

 

誰もが忘れられない、いや、忘れてはならない事故がある。多くの人が亡くなり、前代未聞の大惨事となったJR福知山線脱線事故である。この事故のほか、鉄道ではあらゆる事故が発生し、その裏側で苦しんでいる人たちがいる。

・社内プロジェクトとして執筆
インターネットによる漫画配信を積極的にしている佐藤秀峰先生。彼は鉄道事故問題を漫画化するにあたり、徹底的に取材。社内プロジェクトとして執筆することになり、実際にJRの元運転士に取材をしにいったという。以下は、佐藤先生の漫画紹介コメントである。

・佐藤先生の漫画紹介コメント
「この作品は、鉄道をテーマに組織の問題や事故が起こる原因を描き出した社会派作品です。製作を始めるきっかけは、元JR運転士の方からの1通のメールでした。世間を騒がせた福知山線事故を始め、様々な鉄道事故が起こる原因や問題について、報道では本当の原因が語られていないとして、漫画で世に訴えて欲しいという内容でした。当時、社内プロジェクトとして、スタッフが中心となって漫画を1本製作しようとしていた所で、僕とスタッフで元運転士にお話を聞きに行き、製作を開始しました。プロジェクトの中心となった2名のスタッフは、何度もネームを描き直してはストーリーの推敲を重ね、緻密な作画には膨大な時間がかかりました。果たして、1年半以上の時間をかけてようやく70ページの作品が完成しました」

・70ページ以上の力作!!
漫画のタイトルは『鉄の慟哭』、作者名は「厳ダイン 永田諒」となっているが、実際は社内プロジェクトとして徹底的に佐藤先生も参加。1年半以上もの期間をかけ、70ページ以上の力作が誕生したというわけだ。

・リアルに起こりえる鉄道の世界
実際に読めばわかるが、実際に発生した事故をイメージさせる描写も描かれている。しかしそこから目を背けてはならないし、これが「リアルに起こりえる鉄道の世界」であることを理解しなくてはならない。『鉄の慟哭』は、佐藤秀峰先生が率いるネット漫画雑誌『マンガ on ウェブ( http://j.mp/1CXUctW )』で読むことができる。

執筆: バズプラスニュース Buzz+( http://j.mp/1GO9tAj ) http://buzz-plus.com/article/2015/04/09/manga-2/
Via: マンガ on ウェブ( http://j.mp/1CXUctW )

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現代美術と映像の両シーンで注目のアーティスト石田尚志がついに大規模個展

現代美術と映像の両シーンで注目のアーティスト石田尚志がついに大規模個展

 

「いまにも動き出しそうな絵画」。躍動感あふれる絵をそう表現することがあるが、石田尚志の絵は比喩ではなく、実際に踊り、伸び、動きまわる。「ドローイングアニメーション」という手法を使い、本能的な見る快楽、動きの快楽を存分に楽しませてくれる石田の作品は「動く絵(ムービングピクチャー)」と称され、その独自性とクオリティーの高さから、これまでも現代美術と映像の領域で高い評価を獲得してきた。

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10代での画家宣言から、やがて「音楽そのものを描いてみたい」と始めた路上でのライブペインティング。また、沖縄で働きながら見つけた光明や、帰京後に害虫駆除の仕事さえ創作につなげた日々。20年余の創作活動は、彼の筆使い同様、紆余曲折しながら空へ伸びるツタのように広がり続ける。

2006年、横浜美術館で滞在制作を行い、そこで生み出された作品は世界30か所以上で上映され、代表作となった。今回、横浜美術館で開催されている個展『石田尚志 渦まく光』では、初期の未発表作から多彩な代表作、さらに新境地の新作品が集結。彼のキャリアにおいて重要な意味を担ってきた美術館での個展開催を機に、本人に話を聞いた。

■中高時代の強烈な音楽体験、「音楽を絵に描きたい」という欲望の目覚め

―「動く絵(ムービングピクチャー)」とも称される石田さんの作品ですが、子どものころから絵やアニメーションに関心があったのですか?

石田:日本画家だった祖父に連れられて美術館にはよく行っていましたが、さかのぼると幼稚園のころ、人形作家の祖母の仕事場で過ごした体験が大きかったと思います。そこでいつもクレヨン画を描きながら過ごしていました。当時は空想上の怪獣などを描いていましたが、今それらの絵を見ると、後の作品に出てくる「ムニュムニュ」とした線がすでにあるんです。

―細かな曲線の描き込みをコマ撮りして生まれる、石田さんの代表的な表現法「ドローイングアニメーション」ですね。その「ムニュムニュ」した線の原点は当時からあった、と。

石田:ええ。その線がなぜ生まれたのか、なぜ描きたくなるのかは感覚的なところで、今でも理由がわからないんですけど(笑)。あと、祖母はけっこうモダンな人で、絵本でも安野光雅の『ふしぎなえ』『旅の絵本』などを買ってくれたのを憶えています。

―『ふしぎなえ』は、美しい水彩画による不思議な世界が描かれた絵本、『旅の絵本』は詳細に描かれた世界各国の風景に物語がいくつも潜む、文字のない絵本ですね。

石田:今思うと『旅の絵本』って、現代の絵巻物ですよね。『鳥獣戯画』『地獄草紙』などの12、13世紀の絵巻物も、祖母の部屋にあった画集で見ていました。

―絵巻といえば、今回の横浜美術館『石田尚志 渦まく光』展の第1章が、まさに「絵巻」です。

石田:はい。長さ10数メートルの紙の上に少しずつ線を描いていったものをコマ撮りし、映像化したものを、その絵巻と共に展示するインスタレーションなどがあります。いわばフレームをはみ出して「伸びてしまった絵画」であり、その絵画と映像の関係を、一緒に並べることで示してみたんです。

―映像では、どんなものにふれて育ったのですか?

石田:幼稚園のころ、やはり祖母の部屋で夕方から『ルパン三世』第1期(原作に近い劇画風のテレビシリーズ)などを見せてもらっていました。彼女が人形を作りながら「いいね~」なんて言うそばで……。劇場版『ルパン三世 ルパンVS複製人間』(監督:吉川惣司 / 1978年)は、今日までに500回は見ています。絵的にも、あり得ない空間構成の斬新さが衝撃的だったんです。後に自分の作品が、思いがけずその影響を受けているのに気付いて愕然としたことも(笑)。あとは、『さよなら銀河鉄道999』とか、実写だとデヴィッド・リンチ監督の『砂の惑星』などを祖母に連れられて、映画館に観に行きましたね。

―お祖母さん、かなり尖ってますね(笑)。

石田:中学生の頃になって、オスカー・フィッシンガーという抽象アニメーションの大家を知って、音と造形が連動していくような映像作品に強く惹かれたのですが、同時に、こうした日本のアニメも原体験として大きかったと思います。

―ちなみに『ルパンVS複製人間』の影響が出ていたのは、どの作品ですか?
石田:『フーガの技法』という作品です。もちろん意図して真似したのではなく、それらがもう、自分の視覚言語の一部になっていたんだと思いましたが。

―『フーガの技法』は、バッハの同名楽曲を視覚化したいという発想から生まれたそうですね。音楽に連動した映像ではなく、音楽そのものを映像にすべく、約1万枚もの原画を描いて、数年かけて映像化したと聞きました。今展の第2章「音楽」のハイライトでもあり、音楽と絵画の関係性は、石田さんの作品を構成する大きな要素の1つとなっています。こういった作品を作り始めたきっかけは?

石田:中学生のころ聴いて衝撃を受けたグレン・グールド(旧来とは異なるバッハの解釈と、躍動感あふれるプレイで歴史に名を残すピアニスト)の演奏だと思います。巨大な渦をイメージさせるような演奏で、「音楽を描きたい」という欲望の原点になりました。また高校生の頃に聴いた、ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンというパキスタンの歌手も衝撃的でした。はっきり目に見えるようなうねりのある歌声で、こんなふうに絵が描けないものか……と思ったのを憶えています。実際に自分で描き始めたのは、20歳のころ。CDラジカセでバッハの音楽を流しながら、即興のライブペインティングを新宿アルタ前などで始めました。

■新宿アルタ前でのライブペインティングから、ドローイングアニメーションが生まれるまで

―展示でも新宿アルタ前や夢の島公園でのライブペインティング映像が流れていましたが、バッハを大音量で流しながら、鋭い動きによって線や色が生まれていく様子がとても印象的でした。この頃はもう画家で食べていく覚悟を決めていたんですか?

石田:10代から自分の中で「画家宣言」のようなものはしていました。祖父母ともアーティストで、父は音楽評論家、母が声楽家というのもあって、ピアノを習うなど、絵と音楽は身近なものでした。一方で文字が苦手で、興味のある本なら読めたのですが、そうでないと努力してもまったく頭に入ってきませんでした(笑)。だからわりと早い時期から、絵でやっていくんだ、という想いがあったと思います。中学、高校と美術部で描き続け、10代の終わりには初個展を開きました。学生のころは油彩で「バベルの塔」などを描いていたんですが、やはり「描きたいのは音楽や時間そのものではないか?」という思いが強くあって、ライブペインティングや映像を使った表現へと変わっていったんです。

―しかし、ライブペインティング中心の活動からは数年間で離れ、その後は映像を中心とした作品制作へと向かっていきました。

石田:屋外で人に見てもらえるのはすごく面白かったのですが、2つ問題がありました。まず、作品として定着できないこと。描き終わった後に残るのは、ぐちゃぐちゃの紙だけですから(苦笑)。もう1つは、お客さんの視点が僕のほうにいってしまいがちなこと。僕は音楽に合わせて、線がどんどん伸び、増え、変化していく様を見たかったし、お客さんにも見てほしかったのに、どうしても「パフォーマンス」だと見られてしまう。そこにズレを感じたんです。それで、線が変化していく様子だけを映像で表現しようと考え、ビデオでコマ撮りアニメーションを作り始めました。

―描き手の姿を消滅させるための映像化でもあったんですね。同時に、映像ならではの手法――複数の絵を重ねたり、逆回しなど時間の操作などにも可能性が広がっていった?

石田:はい。パフォーマンスと違って地道な作業で、数十秒の映像を作るにもかなり手間と労力が要りましたが、発見も多くあったと思います。映像については最初独学で、後にイメージフォーラム映像研究所に通って、身に付けていきました。

―石田さんの作品は手法やコンセプトもそうですが、用いるメディアも様々です。

石田:そうですね。今回はデジタル映像の投影だけでなく、16ミリフィルム作品は、実際に映写機で上映しています。フィルムでしか表現できない独特の艶みたいなものがあるんですよね。そうした部分も感じてもらえたら嬉しいです。

■「沖縄の海や山といった自然も、大都会の裏側も、『見る側の意識次第』で、同じように美しく見ることができる」

―そうした中、石田さんは一度消した自分の姿を、ある時期から映像でも積極的に見せるようになりますね。第3章「身体」に展示された『海中道路』は、長い道路に海水で線を描いていく本人の姿をカメラで追いかけていく映像作品ですが、ここでは描線同様、石田さんも踊るように動いています。

石田:色々と試行錯誤を続ける中で、あらためてああいう形もアリではないかと考えるに至りました。ほかに、音楽を聴きながら絵を描いている「手の動き」を赤外線カメラで捉えて作品化したものや、指揮者のように手を振る指先の軌跡をトレースして映像化したものも作っています。ドローイングアニメーションによる作品を先に知ってくれた方からすると、「作家も出てきた!」と驚いたかもしれませんが(笑)、むしろ最初からやっていたこととつながっているんです。

―『海中道路』は、道路自体が絵巻のようでもありますしね。ちなみに同作を作られた沖縄は、石田さんにとってルーツの1つでもあると聞いています。

石田:ええ。10代後半のころ、一度生まれ育った東京を離れたくて、沖縄に住んでいたことがあります。その頃、ひと夏ですが、平安座島という所の石油基地でアルバイトをしながら制作活動をしていました。沖縄の光は東京と違い、影も蒼く輝くような強い印象を受け、煙突の上から見た、せり上がるような大海原や、対照的な巨大タンクなどの人工物を見ながら、東京とは違う意識を体験する日々でした。

―今展の冒頭には、沖縄滞在時に描いた、透明感のある渦巻きのような水彩画『渦』も展示されています。

石田:沖縄では那覇の画家・真喜志勉(まきし つとむ)先生にも大変お世話になり、今度詩画集を共作させて頂く詩人の矢口哲男さん、そして、以後何度もパフォーマンスをご一緒させていただくことになる吉増剛造さんとの交流も始まりました。沖縄でもらったものに対して、いつか何かをお返ししたいという特別な想いはあります。本展は沖縄県立博物館・美術館でも開催するのですが、2月に真喜志さんがお亡くなりになってしまい、ぜひ観ていただけたらという願いは叶わなかったのが残念です。

―沖縄での強烈な自然の体験や人々からの刺激だけでなく、帰京してからは、大都会ならではともいえる害虫駆除のアルバイトをされていたり、これまた大きな振れ幅の選択、という印象です。

石田:偶然見つけて、時給も良かったんですよね。普通の人は接点すらないような空間、地下トンネルから様々な国の大使館にまで入って行ける仕事でした。特に巨大な地下空間などは都市の持つ裏の表情が感じられ、また、沖縄と対照的に色のない世界を経験する日々でもあったと思います。そうした場所に駆除用の乳剤を噴霧器でまくのが仕事だったんですが、それもいつの間にか、線を描く気持ちでやっていました。

―まさに根っからの画家気質(笑)。それが噴霧器と水で描く『海中道路』のような作品にもつながっているわけですね。それだけでなく、おっしゃるような空間体験も作品の世界観と無関係ではないように思いました。

石田:あのころ「もし見る側にパワーがあれば、全てを美しく見ることができるのでは?」と思ったこともあります。海や山といった自然もそうですし、ときには大都会の裏の姿に、神聖とも言えそうな特別な空気を感じることもある。一方でこの世界には、様々な欲望も確かに存在していて、表現者としてそうしたものを見、気付くことの大切さについても考えます。自分も含め、見る者の意識次第なんですよね。

■「自分の描線が死んでいかないよう、『生かし続ける』ためにあれこれ手法を変えて取り組んできたのかもしれない」

―今展を締めくくる第4章は「部屋と窓」。その名の通り、室内の壁や家具に無数の描線が踊り、窓からの自然光をトレースした線も含めた「動く空間絵画」とも言える、石田ワールド全開の映像作品を観ることができます。さらにこのセクションでは新作3点のうち2点が展示されていますね。

石田:はい。1つ目は『燃える机』といって、府中市美術館での滞在制作から生まれたもの。2つ目の『光の落ちる場所』という作品は、自宅のスタジオに白い大判カンバスを斜めに吊るし、宙に浮いたような状態で、約1か月にわたり描き続けてコマ撮り、映像化したものです。新作はこれだけでもいいかな、と思ったのですが、ふと始めたらとまらなくなり(笑)、さらにもう1つ作品が生まれました。

―もう1つの新作、どの章にも組み込まれていない『渦巻く光』(第2章展示室の天井に設置)はまさに「窓」のような作品です。

石田:こちらは正方形のガラス板を少しずつ回転させながらその上に描き、コマ撮りするという新しい手法を採り入れています。さきほどフレームの話をしましたが、絵画も映像もフレームの中にある「平面」という見方ができますよね。さらに、その「平面」を「窓」として捉えられるのではというアイデアがありました。やり方次第によって「新しい窓」が作れるかもしれないと思ったんです。展示室の天井に吊るしたスクリーンを窓に見立てて投影しています。

―ガラス上の絵が「渦まく」様子は、冒頭に展示されている沖縄で描いた水彩画『渦』や、グレン・グールド体験のエピソードともつながるのでは、と感じました。

石田:そうですね。この作品はある意味、今展各章のキーワード「絵巻」「音楽」「身体」「部屋と窓」をすべて内包しているとも考えています。実際には長い絵巻はないし、音楽も、僕の姿も直接は現れていませんが、同時にどれもがそこにある、というような。

―ただ、今日お話を伺っていて意外だったのは、石田さんの緻密でコンセプチュアルとも思える創作が、実際はこの新作のお話のように、偶然性や無意識の試行から生まれているらしい、ということです。

石田:基本は具体的な構想やイメージを持たずに制作を始めますね(笑)。創作用に事前スケッチをしたり、言葉で整理したりすることは少ないです。自分でもよくわからないまま始めて、作りながら発見し、そこに新しい法則のようなものを見つけたとき、作品化の可能性が見えてくる。そんな感じです。

―そう聞くと石田さんの20年余に渡る創作も、直線的な進化というより、作中の描線たちのように、右へ左へ、行きつ戻りつしながら広がっていったのかな? と思いました。

石田:ひたすら細かい描画に取り組みたい欲望も、踊るように描くことへの欲望も、両方あります。今展覧会を担当している横浜美術館学芸員の松永真太郎さんは、僕の創作について「反復」というキーワードを出してくれて、なるほどと思ったんです。といってもまったく同じ繰り返しではなく、むしろその種の反復で自分の描線が死んでいかないよう、「生かし続ける」ためにあれこれ手法を変えて取り組んできたのかもしれない、と今は思います。それを逆に言えば「反復」なのかな、と。

―先日その松永さんから「石田さんの作品はいずれも良い意味で『未完』の要素があり、だからこそ以降の展開につながる、そんな創作スタイルなのでは」とも伺いました。ゆえに「今回の個展は、会場全体も1つの作品のように体験できる場になれたらいい」と。

石田:規則正しくではなくても、作品同士がどこかで強くつながっていたり、漠然と「いつかやるべきだ」と考えていたことが時を経て実現に向かうことはよくあると感じます。だから、たとえば今後の展開次第で「緻密なドローイングアニメーションをやめてから、石田はダメになった」といったことを周囲に言われるときがきても、僕自身がやろうとすることは変わらない。そんなふうに思っています。

金融後進国・中国主導の“三流”国際金融機関AIIB、日本は急いで参加する必要はない

金融後進国・中国主導の“三流”国際金融機関AIIB、日本は急いで参加する必要はない

 

 アジア地域でインフラ整備を支援するために中国が主導して設立を目指しているアジアインフラ投資銀行(AIIB:Asian Infrastructure Investment Bank)。その創設メンバーになるための申請期限を3月末に迎え、東南アジア諸国連合(ASEAN)10カ国や先進7カ国(G7)では英国、ドイツ、フランス、イタリアを含む54カ国・地域(11日現在)が参加を表明している。

 日本は現時点で参加に後ろ向きな姿勢をみせているが、このAIIBをめぐる財務省や外務省を含めた日本政府の対応の遅さに批判が集まっている。

 筆者の見解としては、日本は参加を焦る必要はない。日本の対応の遅さを指摘する声も多いが、実は政府内では数年前からAIIB参加をめぐる検討が進んでいたことはあまり知られていない。

 前述の通りAIIBは中国主導の国際金融機関である。国際金融機関は、海外での活動において相手国政府との関係などで民間金融機関では情報収集がやりにくい分野で存在意義がある。また、単純に公的な金融活動であるとともに、一国の外交戦略の一環でもある。その意味で、各国の国益がぶつかり合う場でもある。

 AIIBは、昨年BRICS5カ国(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ共和国)が新興国などへのインフラ開発支援を目的として設立した新開発銀行と並んで、欧米主導のIMF(国際通貨基金)・世界銀行体制への挑戦と受け止められている。AIIB、新開発銀行はともに中国が主導しているが、特にAIIBは中国だけで出資の半分を占める予定であり、ガバナンスの点で大いに問題がある。

 具体的にいえば、AIIBは本部に各国の政府代表者を理事のような形式で常駐させることはしない。融資計画の方針は先決されて、一定期間の後にその成否が各国代表によって審査される。つまり、AIIBの融資について理事会の関与がほとんどないのである。極端な話であるが、中国政府がある国へのインフラ投資を政治判断したら、AIIBはプロジェクトの採算性などを度外視して融資することも十分に考えられる。例えば、北朝鮮に融資された場合、日本の経済制裁が尻抜けになり、日本の国益を損なう可能性もある。

 にもかかわらず、G7加盟国でもある欧州諸国が参加するのは、あからさまな現実主義にほかならない。目先の中国の成長は魅力的であり、中国との関係で実利をあげようとしている。

 中国がしたたかだったのは、アメリカのオバマ政権がレームダックになって一番弱体化している時を見計らい、かつアメリカと微妙な関係になっているイギリスの取り込みにも成功した点だ。オバマ大統領はイギリスのチャーチル元首相の植民地政策を批判していたので、イギリスとの関係は従来ほど強固ではないのも見透かしていた。イギリスを落とせば、他のヨーロッパ諸国や英連邦諸国を芋づる式に取り込める。イギリスのウィリアム王子が3月に訪中した段階で勝負があった。アメリカは外交政策で失敗したのだ。

●日本の取るべき選択肢

 たしかに、そうした外国事情はあまり首相官邸に上がっていなかったもようだ。この点は、財務省の落ち度だが、今焦ってAIIBに参加するのは、もっと日本の国益に反することになる。長い目でみれば、AIIBに一定の関与をするのは外交戦略上当然であるが、現時点では焦る必要はないというのが重要なポイントだ。

 中国の金融システムは金利の自由化すら終了していない途上国並みの未熟なもので、国際金融業務のノウハウもない。いずれアジアで実績のある日本に水面下では協力を求めてくるはずだ。その時点で理事会が実質的に関与できるかどうかを見極めてから参加しても、遅くはない。

 さらにいえば、アメリカと日本が参加しないのは、AIIBにとって致命的な欠陥になる。なぜなら、AIIBは中国が後ろ盾になるわけだが、それはAIIBの格付けが中国と同等になるということを意味する。現在、中国の格付けは、トリプルAのアメリカ、ダブルAの日本より下のシングルAで、韓国より低い。つまりAIIBはせいぜいシングルAクラスであり、トリプルAである一般的な国際金融機関と比較して三流といってよい。

 これはAIIBの資金調達コストが高まることを意味し、AIIBの貸出金利が高くなり、日米が主導するアジア開発銀行(ADB)と競争しても分が悪くなる。このため、中国は必ず日米に参加を求めてくるはずだ。その機会を狙って、理事会が実質的に関与できることを確約できた時に初めて日本は参加すればよいというのが、国際金融の現場を踏まえれば日本の取るべき選択肢といえよう。
(文=高橋洋一/政策工房代表取締役会長、嘉悦大学教授)

小4男児が女性教師を病院送りに! 親は治療費の支払いを拒否!! 荒廃する中国教育現場の現在

小4男児が女性教師を病院送りに! 親は治療費の支払いを拒否!! 荒廃する中国教育現場の現在

 

 広東省東莞市の小学校で、4年生の男子児童が教師に暴行を加え、重傷を負わせる事件が発生した。

「“毒”麻油鴨が幼稚園の給食に……」中国食品偽装の現場

 4月6日付の「光明網」によると、この小学校で美術を担当する女性教師が、宿題を忘れた児童を咎めたところ、児童が突然、襲いかかってきたという。児童は教師を押し倒して馬乗りになり、頭や腹などを殴打。教師は腰椎を痛め、入院することになった。

 さらに驚くべきは、保護者の対応だ。学校側が、入院した教師の治療費の支払いを加害児童の両親に求めたところ、支払いを拒否。両親は「見舞いになら行ってもいいが、治療費を払えというなら裁判で決着をつける」と言い放ったという。

一方、入院中の教師は「彼はまだ幼いし、事件を大きくしたくない」として、裁判で争わない姿勢を示しているという。
 
 この児童は、入学当初から粗暴な性格で、これまで4年間の在学中に、4人の教師を殴打したことがあったという。小学校の教頭によると、児童には精神疾患の疑いもあるといい、両親に心療内科での受診を勧めたこともあるというが、両親は聞く耳を持たなかったようだ。
 
 中国では最近、小中学生が加害者となる校内暴力事件が続発している。昨年12月には、雲南省昭通市の中学校で、男子生徒が歴史の授業を担当する女性教師を殴打する事件も起きたばかりだ。
 
 こうした事件が起きるたび、中国では「両親が共働きで、ネグレクト状態で育った」「両親に溺愛されて善悪の区別をしつけられなかった」などと、加害児童の家庭環境が原因として指摘されるのが常だ。しかし、 中国在住フリーライターの吉井透氏はこう話す。

「数年前まで中国の教育現場では、教師による体罰が横行していましたが、今はすぐに訴えられる。逆に、教師は児童生徒に指一本触れられない状況です。そもそも、最近の小中学生は早熟で体も大きく、女性教師では太刀打ちできない」

 権威に逆らうことを忘れない子どもたちがそのまま大人になれば、やがて一党独裁体制も崩壊するか!?
(文=青山大樹)

いまや特攻服は若者ファッションの一部となっている

いまや特攻服は若者ファッションの一部となっている

 

「夜露死苦」「バリバリ」「なめんなよ」。今の40代がまだ中高生だったころ、一世を風靡したヤンキーファッションが時代を超えて流行の兆しを見せている。その背景とは?

⇒【写真】米澤社長と、気合の入った特攻服の数々

◆特攻服は若者ファッションの一部になっていた

 取材班が訪ねたのは、変形学生服や特攻服販売の最大手として有名な、岡山県玉野市の「プロス通販」。不良のバイブル的雑誌『チャンプロード』には、巻頭カラーで「アクティブな短ランは新入生にピッタリ!!」と衝撃的なキャッチコピーが入った広告が載っているが、10ページにもおよぶこのド派手でキャッチーな広告を出稿しているのが同社なのだ。

「以前は複数社が特攻服を作っていましたが、廃業したりカジュアル衣料に転換したりして、現在はほぼ当社の独占状態です。売り上げは毎年、前年比アップで推移しています。卒ランについては、今年1月と2月で全国から300着以上の注文をいただいています」

 そう語るのは、ホームページで積極的に顔出しして名物キャラと化している米澤章雄社長。特攻服に15色のカラーバリエーションを持ち込み、異色の新機軸である特攻学ランやレディース特攻服などのデザインを自ら手がけるなど、ヤンキー界のファッションシーンを牽引する存在だ。

「特攻服というのは暴走族やヤンキーだけの特殊な服ではなくなって、もう若者のファッションのジャンルの一部になっています。だから、その流行り廃りを決めるのはお客さんではなく、お店の側。いくつも見本を作って雑誌やネットで広告を打ち、そのレスポンスを見て、プッシュしていく商品を決めていくんです」

 まるでミラノあたりの老舗ファッションブランドの総帥のような口ぶりで説明する。

「実際、当社のお客さんには本物の暴走族はほとんどいません。社会人の場合は、歌手のライブや、イベント、結婚式の余興などで使うという注文が多いですし、卒ランの注文の際にも、最初は本人が電話をかけてきますが、途中から『あ、お母さんに代わります』なんて気弱なコも。昔、ヤンキーをやっていたお父さんが自分のときは卒ランなんてなかったから、息子には気合の入ったものを着せてやりたいと思い注文するケースも」

 変形学生服や特攻服は、オモテのカルチャーに脱皮しつつあるようだ。かつてネット上の某巨大ショッピングモールに出店しようとした際は断られたが、10年を経た今では彼らのほうから出店してくれと頭を下げてきた。地元の銀行も、この業種には大きく成長する可能性があると注目し、融資を持ちかけてきたという。

「当社が何十年もかけて工夫してきた商品構成は、どこも真似できないでしょう。自社で新商品を企画して、一着ずつオーダーメイドで製造しているのは、おそらく当社だけです」

 米澤社長はそう言って胸を張るが、御年70歳で同社には後継者がいないという“衝撃の事実”も。変形学生服&特攻服の世界は、社長の長寿と、やる気ひとつに先行きを委ねている。“ヤンキー文化”は岐路に立っているのだ……。

取材協力/プロス通販(http://www.pros-online.jp/)

― 今どきヤンキーファッション考現学【2】 ―

HN:
上原健二
性別:
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