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本田のシュートもバー直撃…連勝逃したミラン指揮官「決定力欠いた」
キエーヴォ戦開始前の本田(右)とインザーギ監督(左)[写真]=Getty Images
日本代表FW本田圭佑が所属するミランは、2月28日に行われたセリエA第25節でキエーヴォと対戦し、0-0で引き分けた。
後半開始から出場した本田は、先制点に迫る強烈なミドルシュートを放ったが、惜しくもクロスバーを直撃。精彩を欠いたチームは、最後まで得点を奪えずに連勝を逃した。「決定力を欠いた」と試合を振り返るフィリッポ・インザーギ監督のコメントをクラブ公式HPが伝えている。
「後半は良くなったが、ゴールを決めることができなかった」と語る指揮官は、「3試合負けなしで、ここ2試合は失点していない。私はポジティブに捉えている。だが、2人の選手を失ったのは残念だ」と、本田と交代したMFリッカルド・モントリーヴォに加え、終盤にはオランダ代表MFナイジェル・デ・ヨングも負傷交代を余儀なくされたことに触れた。
インザーギ監督はデ・ヨングに代え、イタリア代表MFアレッシオ・チェルチを投入。「残り10分で勝ちたかった。リスクを冒すのは正しいことだった」というように、前がかりでゴールを目指したが、ネットを揺らすことはできなかった。決定力不足を嘆きながらも、「(マッティア・)デストロは良いパフォーマンスを見せた。(ジャンパオロ・)パッツィーニにもチャンスを与えた。彼も素晴らしいアタッカーだからね」と語っている。
本記事は「サッカーキング」から提供を受けております。
著作権は提供各社に帰属します。
メッシ、昨シーズン不調の原因はピザの食べ過ぎ?バルサOBが明かす
ピザの食べ過ぎで不調に陥っていたとされるメッシ [写真]=Getty Images
バルセロナに所属するアルゼンチン代表FWリオネル・メッシが、昨シーズン不振に陥った原因がピザの食べ過ぎである可能性が浮上した。2月28日付のイギリス紙『デイリー・メール』が報じている。
メッシは昨シーズンの公式戦46試合に出場し、41ゴールを記録した。十分に異常な数字ではあるが、メッシにとっては2008-09シーズン以来の低調な結果となってしまった。またクラブにおいても無冠に終わり、メッシの不調がささやかれていた。
クラブのOBであり、当時13歳のメッシを見出したことでも知られるカルラス・レシャック氏は、昨シーズンのメッシ不調の原因について“ピザ”を大量に食べ過ぎたからだと主張している。
レシャック氏は「これまで彼がクラブでピザを食べた時は、しっかりと休息をとっていた。しかし私が思うに、昨シーズン彼は必要以上にピザを食べ過ぎたのだろう」と自身の見解を述べた。
少々強引にも思えるが、実際にメッシはピザが好物のようだ。昨年の9月、スペイン紙『Libertad』は、第5節のマラガ戦終了後にバルセロナの選手たちが何を食べているかのリストをリークした。スペイン代表DFジェラール・ピケやクロアチア代表MFイヴァン・ラキティッチは、サンドイッチやフルーツを頼んでいるが、メッシの欄には確かに『チーズのピザ』と記されている。もちろんその他の選手でもピザを頼んだメンバーはいたが、間近でメッシのことを見ていたレシャック氏がとなえる説にも信憑性があるのかもしれない。
食事面が改善されたのかは定かではないが、メッシはかつての輝きを取り戻しつつあり、リーグ戦10試合で14ゴールと爆発している。例えスーパースターであっても身体が資本だということに変わりはないのだろう。
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俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈マイク・タイソンvsジェームス・ダグラス〉
1988年3月21日、日本初の全天候型球場として開場した東京ドームで、3日前18日のこけら落とし、プロ野球・巨人vs阪神のオープン戦に次いで初めての格闘技興行が行われた。ドン・キングと帝拳ジムの協同プロモートによるマイク・タイソンとトニー・タッブスのボクシング世界ヘビー級王座戦。タイソンは当時、日本においてもそれだけの価値あるビッグスターであった。
プロデビューから29連勝で20歳にしてWBC王座を獲得すると、翌年にはWBA、IBF王座も奪取。瞬く間に3団体統一を成し遂げた。
ダッシュ一番、相手のパンチをかいくぐって懐深くに飛び込むと一気呵成のラッシュ。そのパンチ力はとにかく桁違いで、三冠統一までの31連勝中に判定までもつれこんだのはわずか4戦と、文字通り「KOの山」を築いた「世界最強の男」であった。
日本初戦の相手、タッブスとてプロデビューから21連勝を誇った前WBA王者。決してかませ犬などではなかったが、これに何もさせずの2ラウンドKO。日本においてもタイソン神話は揺るぎないものとなっていった。
それから2年、1990年2月11日にタイソンの日本2戦目が、同じ東京ドームで行われる。
相手のジェームス・ダグラスは、長身だけが取り柄で目立った戦績もない典型的な当て馬。タイソンの勝利は揺るぎないと、恐らくはダグラス自身もそう思っていただろう。
ボクシング史上最大ともいわれる番狂わせが、この日に起こるなど誰も予想だにしなかったのだ。
ゴングと同時にタイソンはいつも通りに相手の懐へ飛び込もうとするが、アウトボクシングに徹して下がりながらジャブを放つダグラスにこれが届かない。
それでもこれまでのタイソンであれば強引にラッシュを浴びせかけたはずだが、パンチはいずれも単発。いつもの両グラブを顔前で構える“ピーカブースタイル”とは違って両腕を解いていたのは、相手を格下と見て早めの決着を狙ったものだったか。
しかし、その空いた顔面をダグラスの左ジャブが散発ながらも捉えていく。
第5ラウンドまではその繰り返し。両者ダメージこそは感じられなかったが、パンチのヒット数ではダグラスが大きく上回り、タイソンの勝利を信じる観客にはフラストレーションばかりが溜まっていった。
6ラウンドに入ってようやくエンジンが温まったか、タイソンはピーカブースタイルに構え直すと、飛び込んでのボディーやジョルト気味に打ち上げるストレートがダグラスに当たり始める。そして8ラウンド終了間際、ついにタイソンのアッパーでダグラスがマットに崩れ落ちた。
カウントアウト寸前に立ち上がるが足元はおぼつかない。だがレフェリーが離れた直後にラウンド終了のゴングが鳴らされる。
「後でビデオチェックしてこのときのカウントを計ると14秒もかかっていて、本来ならあそこでTKOの裁定が下ってもおかしくなかった。ラウンド終了間際でレフェリーが時間のチェックも同時に行っていたのがロングカウントの要因でしょうが、いずれにせよダグラスにとっては幸運でした」(ボクシング誌記者)
そして迎えた第9ラウンド。タイソンは勝ちを決めようと前に出るが、そこにダグラスのジャブが決まると試合の流れは反転する。足だけは前に向かうタイソンだが、パンチが出ない。
これを機にジェームスは2分過ぎからラッシュを仕掛けると、ロープ際でダウン寸前に追い込み、続く10ラウンド、ワンツースリーときれいに連打が決まったところでタイソンはまっすぐ後ろに吹き飛んだ。
「この数戦前から、関係者の間ではタイソンの不調は言われていたけれど、まさかKO負けとは…」(同)
ダグラスは次戦、イベンダー・ホリフィールドを挑戦者に迎えた防衛戦で3ラウンドKO負け。このことからも「ダグラスが強かった」というよりも、タイソン側に問題があったと見るべきだろう。
この後のタイソンはレイプ事件で収監されるなど転落の一途。1996年にはWBC、WBA王者に返り咲いたものの、かつての快進撃のころには程遠く、ホリフィールド戦での“耳かみちぎり事件”以降、事実上の表舞台から退いたのだった。
激ヤセ退院したノムさんが「極秘外食」でリハビリ開始!
テレビ、新聞、講演会などの表舞台から姿を消している野村克也氏(79)の「病状と動向」を、本誌は再三報じてきた。一貫して沈黙を守る球界の御意見番が、再び元気な姿を見せるのはいつなのか。実は復帰に向けて、「極秘始動」していたのだった──。
野村氏は昨年10月中旬に体調不良で都内の病院に検査入院、重大な心臓疾患「解離性大動脈瘤」の疑いが指摘された。一時退院後、11月下旬に再入院して手術、今年1月中旬に無事退院。その際、20キロ近くも激ヤセして体力低下が著しく、髪の毛は真っ白に。沙知代夫人は、野村氏が突然「姿を消した」ことへのマスコミや周囲の心配の声に、「入院なんかしていない」と説明しているというが、それがかえってコトの重大さをうかがわせるのだ。
退院後は自宅療養のかたわら、手すりにつかまりながら階段を上るなど、歩く訓練をしていたという。その野村氏がついに本格リハビリを始めたのだ。近況を知る球界関係者が明かす。
「今は一生懸命、自力で歩く練習をしているところ。ノムさんには行きつけの飲食店が都内に何カ所かありますが、2月中旬、親しい知人との会食のため、そのうちの一軒に出かけました。もちろん、車での極秘外出です。実はこれが、退院後2度目の外食でした。最初は沙知代夫人と出かけた、完全プライベート。この日が初めての第三者との会合でした。リハビリの一環ですね」
野村氏ほどの有名人となれば、休養中に目撃されればちょっとした騒ぎになってもおかしくはない。ところが、
「あまりにも風貌が変わり果てていたので、普通の人が見てもノムさんだとはなかなか気づきません。別人だと言っていいほどの激ヤセぶりなのですが、肝心のしゃべりは従来どおり健在だったようです」(前出・球界関係者)
この「極秘外食リハビリ」の先に野村氏が見据えるのはもちろん、野球評論家としての完全復帰。球界関係者がさらに続ける。
「プロ野球の開幕に合わせて、出演を見合わせているスポーツ情報番組『S☆1』(TBS系)や評論家契約するメディアに登場する、という目標を掲げ、頑張っているようです。ノムさんの主たる収入源は講演会の出演料。ここで『危うく死にかけましたわ』などと笑いのネタにするためにも、早く元気にならないといけない。不健康な風貌では、世間やスポンサーにマイナスな印象を与えてしまいますからね。沙知代夫人もその点を大いに心配し、精神的に疲弊しているといいます。いずれにせよ、マスコミに登場して完全復活をアピールすることが、講演会のオファーを受けるための第一歩となります」
野村氏はかねてから、健康食品会社のイメージキャラクターとして、たびたび新聞広告などに登場している。大手メディア幹部が言う。
「その健康食品会社から最近、広告掲載の依頼がありました。企業が大丈夫だと言っているようなもので、ノムさんの体調がよくなっている、というタイミングでのオファーでしょう。手術だ入院だ体調不良だということでは、健康食品会社のイメージも悪くなりますから」
これも復帰が近づいていることの証左なのかもしれない。
さて、野村氏不在のプロ野球キャンプはというと、
「ある意味、静かですよ。ノムさんがキャンプに行くと、『○○と話したい』と希望する監督や選手らとの場を担当メディアがセッティングするのですが、『どんな厳しいことを言われるかわからないから』と逃げ腰になり、相手を説得するのが大変なケースもあるわけです。スケジュールにしても、○日までじゃないと、講演会の予定が入っているから(キャンプ地を)離れないといけない、とか。いろいろ振り回されない分、楽といえば楽なんでしょうが、あの論理的解説と毒舌が聞かれないのは寂しいようでもあり‥‥」(スポーツ紙デスク)
開幕まであと1カ月強。選手と同様、間に合うかどうか懸命の「調整」が続く。
イスラム国だけじゃない 世界の危険都市ワースト20(3)
15位の『キンシャサ』はコンゴ民主共和国の首都。その昔、プロボクサーのモハメド・アリが劇的な逆転KOを収めた“キンシャサの奇跡”で知られ、アフリカ有数の経済発展を遂げた都市だったが、’00年代半ば以降治安が大きく悪化。シェゲと呼ばれるストリートチルドレンがギャングとなって犯罪集団化。アフリカ屈指の危険都市として名高いナイロビやヨハネスブルグ以上とも謳われている。
16位の『シウダー・フアレス』は、メキシコ麻薬戦争を世界中に印象付けた街。’00年代後半には“戦争地帯を除く世界で最も危険な都市”と恐れられ、’09年には7600人が亡くなった。
「大半が麻薬グループによる犯行で、意識がある人間をチェーンソーで切断したり皮を剥いだり、残虐性はイスラム国顔負け。当時に比べて殺人事件は3分の1に減りましたが、それでも世界の上位に入る凶悪レベル」(前出・高島氏)
なお、この街と同時期に殺人事件発生率世界1位を争っていたのが、17位南米ベネズエラの首都『カラカス』。郊外のほかに街の中心部にもスラム化した45階建ての高層ビルがあり、昔の香港・九龍城のように犯罪の温床になっている。
18位はアフリカ大陸最南端の『ケープタウン』。南アフリカの危険都市といえばヨハネスブルクが有名だったが、「’10年のサッカーW杯を機に治安が改善」したという。しかしケープタウンでは治安回復は見られず、ヨハネスブルグから無法者が移り住み、むしろ治安が悪化する一方だという。
19位はパナマ運河で有名な『パナマシティ』。タックスヘイブン(租税回避地)による買い物目当ての外国人観光客も多いが、彼らを狙った強盗などが日常茶飯事。タクシー乗車中に銃やライフルを持った武装強盗団に襲われることもあると、移動中も油断できない。
最後の20位、『ポートモレスビー』はパプアニューギニアの首都だが、「アジア・オセアニア地区で最も危険な街」として知られている。現地を訪れた日本人ビジネスマンによると、「タクシーから降りて、お店やホテルに入る5メートル足らずの間で強盗に遭ったケースをいくつも知っている」と、熱帯の国らしいのどかなイメージはない。
ここに挙がった都市は、警戒の強い首都やそれに準ずる街。平和な日本に住んでいると想像もつかないが、海外には生活のためには平気で人を殺す無法地帯が、現実にこれほど数多く存在するのだ。
仮に誘われたとしても、行ってはいけない。