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遮水壁の建設と除染が進む福島第一原発 ── 4年が経過した原発構内の現状は
廃炉に向けた作業が進む福島第一原発
「1号機から4号機ともに冷温停止状態を継続しています」。東京電力の広報担当者は、福島第一原発の現状について、こう説明し始めた。冷温停止状態であることはある意味当然だとしても、4号機の燃料1535体はすでに取り出し済みだ。遅々とはしているものの昨年と比べて、廃炉に向けた作業は確実に進んでいる。汚染水問題などを抱え、4年目を迎えた福島第一原発はどうなっているのか? 昨年に続いて同原発構内を取材した。
低減していた放射線量
9日午前11時30分、ヤフー・ニュース個人のオーサーらとJRいわき駅で集合し、原発事故の対応拠点である「Jビレッジ」にタクシーで向かう。ここからさらに、東電が用意したバスに乗り込んで福島第一原発へ。
福島第一原発に続く曲がり角のホットスポットの放射線量はバス内で、昨年14μSvだったが、今回は6.8μSvにまで落ちていた。昨年訪れた際にあった検問所はなくなっていて、時の経過を感じた。しかし、住民の姿はないことや、崩れたままになっていた建物や荒涼とした風景には変わりがない。
フルマスク(左)と半面マスクの違い
原発に到着し、「入退域管理施設」で防護服を身に付ける。前回は、何重にも防護した、初めて身に付けるものものしい装備に緊張したが、今回は「そういうものだ」と幾分か慣れている自分に気づく。慣れというのは怖いものだ。
今回は、原子炉建屋に入らないこともあり、フルマスクではなく、半面マスクを着用した。これは普通の防じんマスクで、土やほこりを体内に取り込まないために必要だ。ふだんからメガネをしている者は、メガネのままで、裸眼の者はゴーグルを着用する。場所によっては、半面マスクもせず、サージカルマスクで立ち入れるようになっているという。
フルマスクをするとどうしても声がこもるので、サージカルマスクで作業できるということは、現場の作業員のコミュニケーション向上や身体的な負担も小さくなるといった効果がある。フルマスクからゴーグルに変わっただけでも視認性は上がる。小さく地味に思えるが、工事には大きな前進だ。
東電から伝えられた「取材にともなう放射線被曝」の計画量は、0.1mSv(ミリ・シーベルト)以下。前回の半分。除染が進んでいたり、舗装が進んだりしていることで、ダストの舞い方が以前よりも改善しているのだという。
遮水壁と凍土壁、汚染水から海を守れるか
福島第一原発の見取り図
構内では、海側の遮水壁と陸側の凍土式による遮水壁の建設が進んでいた。前者は汚染水を構内から漏らさない方策で、後者は原子炉建屋に水を近づけない方策だ。すでに多く報道されているが、一日300トンの地下水が構内に流入している。これでも流入量は減った。半年前までは400トンだった。
海側の遮水壁。汚染水が海に流れるのを防ぐ
バスに乗って1号機と2号機の前あたりの護岸に着いた。海側の遮水壁が見える。海面からの高さ4メートルの護岸に全長約780メートルにわたって“竹輪状”の柱が並ぶ。
前回の取材でこの付近は、放射線量が高いという理由から足早に去るように指示された場所だったが、今回は落ち着いて見ることができた。土がむき出しになっていた表面を舗装したことで、放射能を帯びた粉塵の飛散が抑えられているからだという。とはいえ放射線量は30μSvと高いことは高い。それでも1年前は3桁はあったというから、確実に下がっている。
凍土式遮水壁の工事が進む現場。作業員はタングステンのベストを身に付けている
さらにバスに乗って4号機の西側に進んだ。地面が掘り返され、凍土壁の冷却材を循環させる配管の設置が進んでいた。凍土壁というのは、地中30メートルに凍結管を打ち込み、ここに冷却材を流すことで土を凍らせ、地下水を遮断する壁のことだ。
凍土壁は、1号機から4号機をぐるりと囲むように設置される。延長は1500メートル。これが完成すれば、地下水は原子炉建屋に流れ込まなくて済むようにと考えられている。ここでは作業時間が長くなりがちだということで、作業員は被曝量を抑えるためのタングステンベストを身に付けていた。
廃炉に向けて工事が進む発電所
構内南側にある廃スラッジ建屋の屋上から発電所全体を望んだ。雨に降られ、空はくすぶっていて、岸には荒々しい波が打ち付けている。雨の向こうに原子炉建屋の姿がうっすらと見える。水素爆発で吹き飛んだ屋根、燃料を取り出すクレーン、汚染水を貯めたタンクの数々が一度に目に入り、それが物悲しけな一巾の絵のようにも見えた。
この場所にいると、いろんな思いが去来する。今回の取材で被曝した放射線量は0.02mSv=20μSv。歯科のレントゲン撮影1回分。
屋上から、この景色をいつまでも見ていたいと感じていた。これもまた慣れなのだろうか。
本記事は「THE PAGE」から提供を受けております。
著作権は提供各社に帰属します。
東京大空襲から70年、スカイツリーが鎮魂の白色に点灯
白く点灯したスカイツリー
10万人の市民が犠牲となった東京大空襲から70年が経った10日、かつての空襲の地に立つ東京スカイツリーが鎮魂の意味を込めた白色にライトアップされた。
白く点灯したスカイツリー
東京大空襲があった1945年3月10日未明、現在スカイツリーが立っている東京下町地区に米軍の爆撃機「B29」が300機以上襲来し、2時間あまりにわたって爆撃が続いた。
隅田川と荒川に挟まれたデルタ地帯はほぼ全滅。隅田川の対岸西側も広く消失した。東京スカイツリーからは、これらの地を広く見ることができる。
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力を込めても芯が折れないシャーペン、「文房具屋さん大賞2015」大賞に!
扶桑社は6日、”文房具のプロ”である売り場の店員が最高の逸品を選ぶ「文房具屋さん大賞2015」の結果を発表した。
ゼブラの「デルガード」が「文房具屋さん大賞2015」大賞に
プロが自分で買いたいものを選出
同賞は、誰よりも真剣に現場で文房具と向き合う文房具店員が「自腹で買いたいか」という基準で選出したもの。「大賞」「新人賞」「コスパ賞」「デザイン賞」などの各賞から「書く」「消す」「切る」「測る」「留める」「つける」「伝える」「管理する」という「部門賞」を設けて発表した。
「大賞」は、ゼブラの「デルガード」。同製品は、新機構で芯を守り、”どんなに強い力を込めても芯が折れない”という特徴を持つシャープペンシル。
銀座・伊東屋は同製品について「力の加減を気にせず、思うままに書けます。電話の際のメモやアイデア出しに重宝しますね。このシャープは確かに折れません」とコメントとしている。
他の賞に関する詳細は『扶桑社ムック 文房具屋さん大賞2015』で発表されている。
最後に向けお顔きれいに ── トワイライトエクスプレスで初の洗浄シーン公開
12日の出発分を最後に運転を終了するJRの寝台特急「トワイライトエクスプレス」。その最後の出発を前にした車両の報道公開が10日午後、大阪市淀川区の網干総合車両所宮原支所で行われ、これまで公開したことがなかった「車両外部の洗浄」などが公開された。この洗浄されている車両は、最後の出発となる12日に走る予定。
洗浄は人知れず行う作業、まず日中にやらない
[写真]12日最後に使われる予定の車両。トワイライトエクスプレスの文字も見える=10日午後、大阪市淀川区で
「この作業は夜中とかにやったりするんで、あまり公開することがないんですよ」と語るのは、ジェイアール西日本メンテック宮原営業所係長の田中憲一さん(46)。田中さんは、同特急が運行された1989年からずっと、この車両の洗浄や、寝台のセット・清掃なども担当し続けてきたという。
ほかの職員も「これを公開するってまずないわ。人知れず毎日、夜中とか朝5時とかにやったりするんで、日中にやることはない。これは特別な公開やね。ここはこうして屋根とかもないところで洗ってるんで、冬場なんかは寒くて、天井なんか凍って滑ったりすることもあったわ」と話す。
車体や窓を、長いブラシでゴシゴシと洗う作業は大変そう。さらに、10日午後は雪も降ってきたため、その様子を見ているだけでも寒かったが、係員はていねいに洗い続けていた。
洗浄担当の男性「最後やからいつも以上にきれいに」
[写真]磨かれたあとは水できれいに流す。最後に走る予定の車両だ=10日午後、大阪市淀川区で
田中さんは「23年の思い出は?」との質問に「運行が遅れたとき、夜いつ帰ってくるんかな? とか覚えがある。これから生活習慣も変わり、当分、気が抜けたようになるんちゃうかな」と話す。
また、最後の運転に向けては「いつも以上に、全然目立たないところとかもやっとかなと。言うたら最後やから出血大サービス。ただ、時間かけたら残業になってしまうんで考えてやります」と笑いをとりながら話していた。
地図URL:http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.72958980683004&lon=135.4894530357215&z=17
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<東日本大震災>南相馬から避難・大阪で鍼灸治療院開き3年の夫婦 ── 故郷の治療院も再開へ
「10日で大阪の治療院を開業して3年、本当にいろいろありましたが、これを機に故郷の治療院も再開させたい」と語るのは、大阪市東住吉区「かとう鍼灸治療院」の院長、加藤大助さん(44)。「大阪の」という言葉があるが、本来であれば故郷で治療院を続け、大阪に住んで治療院を開業することはなかった。あの東日本大震災の原発事故が起きなければ。
家族は全員無事も近くで原発事故が
[写真]友人らに支えられここまで来れたと話す加藤大助さん(右)と清恵さん夫妻=大阪市東住吉区で
福島県南相馬市で鍼灸治療院を経営していた大助さんは、妻の清恵さん(40)と娘3人と地元で暮らしていた。同院は内科医をしている加藤さんの父親が所有する家の敷地内に建てられており、みんなで仲良く暮らしていたという。「京都にある大学で鍼灸などを習い、大阪府寝屋川市内でも学んだことを生かし2年ほど働いてました。地元へ戻って病院に勤務。その時に受付をしていた妻と知り合い17年前に結婚し、鍼灸院を開業して生活していたんです」
3人の娘に恵まれ、愛する地元で幸せに暮らしていた。だが、そんな暮らしを突然、大きな揺れの悪夢が襲った。2011年3月11日に発生した東日本大震災だった。鍼灸院の休診時間で横になっていた時、突然の激しい揺れに目が覚めた。「最初横揺れが起こり、すぐにおさまると思ったらそれが縦揺れに変わって、はめ込み式のタンスから中の物が全部出てきました」
一方、清恵さんは自宅リビングで当時3歳の3女とすごしていた。最初の揺れで庭へ避難。揺れがおさまり、リビングに戻ると、自分と3女がいた場所に大きな食器棚が倒れガラスも散乱していた。
自宅の中はめちゃくちゃになったが、家族は全員無事だった。しかし、テレビのニュースの内容に驚くばかり。そして、距離にして約20キロの地点にある東京電力の福島第一原子力発電所の事故を知り、大助さんは着の身着のままで妻子とともに車で遠くの方へ避難した。
思うように避難できず、大阪の友人から連絡
テレビやラジオから聴こえる被害状況や原発事故の内容を聞き、妻子や妻の妹家族と車で避難。「とにかく遠くへ」と福島市内を目指した。「原発事故の情報や被ばくされた方の数が増えていると聞いて、子どもたちを守らなくてはと必死で逃げました」。最初は宮城県の仙台市へ行こうとしたが、津波被害のため道路が通れないと聞き行き先を福島市内にしたという。
だが、福島市内も混乱状態で車も動けない。市民会館へたどりついたが、そこはもう避難してきた地元の人など多くの人が集まっていた。小さな子どもがいることから、大助さんはほかへの避難を模索。そこで「福島空港が避難所として開放されている」と聞き、即座に向かった。
同空港へ着くと、臨時便に行列ができていた。「飛行機での避難」を考え、親類が静岡県内に別荘を持っていたためそこへ向かうことを考え、徹夜で行列に並び東京へのチケットを手に入れた。だが、その日に長野県でも地震が発生。清恵さんや子どもたちも怖かったため、再び避難先を探した。
そんな時、大学時代の同級生の妻が「大阪で文化住宅をキープしたよ」と連絡をくれた。だが、2日以内に本人がサインしないとそれが無効になってしまう。そこで、清恵さんと子どもらが先に大阪へ向かった。大助さんは両親のもとへ戻ろうとしたが、同級生が「奥さんや子どもさんが来ても、なにもしらない大阪ではわからないだろうから一緒に来てくれ」と助言してくれたため、再びチケットの行列に並び翌日に大阪へ向かった。
家や仕事を世話してくれた大阪の友
[写真]故郷・南相馬に残した治療院の再開を目指すと語る加藤大助さん
大阪市住之江区のいわゆる文化住宅に来たが、風呂・ガスともにナシの状態。「住めるだけでもありがたい」とすごしていたが、子どもたちは突然の生活環境の違いに辛さを覚えていた。そんな時、父親がマンションを持っているという同級生が「ワンルームが隣同士で2部屋空いたのでおいで」と声をかけてくれた。家族5人でそこへ引っ越し、約8か月すごすことになる。
住む場所は確保。だが、収入がないため大助さんはコンビニやガソリンスタンドのアルバイト求人などに申し込もうとしたが、学生時代の同級生らが「鍼灸の仕事は、手を使わなかったら感覚がなくなってしまう。なんとかするから」と声をかけてくれ、3~4か所で同業者の手伝いをできるように段取りを組んでくれた。
そして、その手伝いであちこちへ移動し、たまたま大阪市東住吉区の地下鉄田辺駅を利用しようとした時、目の前のビルの窓にあった「空店舗」の看板が目に入った。
その瞬間「ここでならやれるかもしれない」という直感がよぎり、すぐに申し込んだ。「子どもたちのことを考えると、南相馬の現状では連れて帰れない。自分だけが南相馬へ帰って治療院を再開することもできない。もうここで暮らしていくしかないと考え、腹をくくりました」
避難から約1年たった2012年3月10日、東住吉区で「かとう鍼灸治療院」を開業した。地下鉄・田辺駅の真ん前ということもあり、今では地元の人が訪れ、中には南相馬で通っていた人が来てくれることもあるという。そして、きょう10日で開業から丸3年を迎えた。子どもらも当初は環境の変化に動揺したこともあったが、今では元気に学校へ通っているという。
大阪で開業3年の決意・南相馬の治療院を再開へ
「今こうしていられるのは、支えてくれた友人たちのおかげです」と大助さん。3年がたち、地元にもとけこんでいるが「まだ正直、食っていくのが精一杯なんで頑張らなければ」と日々奮闘。清恵さんも子育てをしながら、受付で支えてくれている。「ほんと妻や子どもたちにも感謝です。よくあの状況で文句ひとつ言わず頑張ってくれたので」
開業3年を迎え、新たな決意も口にした。「やはり故郷の治療院のことは、1日も忘れたことがありません。多くの患者さんに支えられてましたし。だから4月から、南相馬の治療院再開に向けて動こうと思うんです」
4月からは月に1週間ほど南相馬へ戻り、治療院を任せられる人を探し再開させたいという。そして、大阪と南相馬で治療院を回していくのが目標だという。「父親は内科医として故郷へ残り、一時期はやむなく東京へ避難したけど、避難指定解除になったら即戻り患者さんを診てるんです。僕もこの3年を機に再開に向けて頑張りたい」。再開の計画を聞いた地元の人たちからは「待ってるよ」という声もあるという。
今でも経営は大変だが「一歩ずつ進んで行かなければ。子ども3人をしっかり育てなくちゃいけないし」と前向きで気合い十分の大助さん。きょうも故郷への想いを胸に患者さんの治療にあたる。
地図URL:http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.62815600045654&lon=135.52584563912777&z=16
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