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将棋4コマ波瀾盤上 専門紙に漫画連載31年
私が将棋週刊紙「週刊将棋」に連載している4コマ漫画「オレたち将棋ん族」が先月、開始から31年を迎えた。今の若い人は、このタイトルが何をもじっているかもわからないだろう。よく31年も続いたものだ。
バトルロイヤル風間氏
私はもともと漫画家志望。法政大学に進み、漫画研究会に所属した。在学中に漫画誌デビュー。当時は実在のプロ野球選手が出てくる4コマ漫画「がんばれ!!タブチくん!!」(いしいひさいち作)がブームで、ある出版社から頼まれタブチくんと似たテイストの阪神タイガース4コマ漫画を何冊か描いたこともある。
夢忘れられず退職
大学卒業後、なぜか就職試験に通り出版社に入社。編集者として小中学生向けの宅配問題集を作った。ある程度のページ作りを任され、外注するより早いからと自分で漫画を描いていた。
2005年秋、羽生善治王座が王座14連覇を達成した直後の作品
漫画家になる夢を忘れられず出版社は3年で退職。間もなく、同じ出版社に勤めていた将棋好きの先輩編集者から連絡があった。先輩が転職した毎日コミュニケーションズ(現マイナビ)が「週刊将棋」を創刊するという。「そこで将棋漫画を描いてみないか」
願ってもない話だった。腕前は大したことがないが、子供の頃から大の将棋好き。だがプロ棋界のことは詳しくなかった。将棋の本を手当たり次第に読んで勉強した。
こうして1984年2月、「将棋ん族」の連載は始まった。タブチくんのように、実在のプロ棋士が登場する4コマ漫画だ。先輩編集者からは、できるだけ時事ネタを絡めてほしいと頼まれた。
連載開始からしばらくして、昭和の巨人、大山康晴十五世名人をちゃかすような漫画を描いた時はビクビクした。大山先生は日本将棋連盟の会長でもあった。大山先生の逆鱗(げきりん)に触れたら、連載は終わりかもしれない。
その後、大山先生にインタビューする機会があり、思い切って聞いてみた。「私の漫画、読んでますか?」。「『あるな』とは思っている」。読んでいなかったわけで、心配して損をした。
漫画はタイトル戦の結果を受けて描くことが多い。対局が締め切り直前の時は、こっちが勝ったらこんな話、逆の場合はこんな感じと両方ネタを考えておく。なぜか自信のないネタの方の結果が出る。不思議なものだ。
羽生さんの描き方変化
「将棋ん族」がきっかけで多くの将棋媒体に漫画を描くようになった。現在は将棋雑誌自体がだいぶ減ってしまったが。
時間とともに、人も、絵も変わっていく。絵が一番変わったのは羽生善治王座(名人・王位・棋聖)だろうか。羽生さんが台頭し始めた頃は「羽生ニラミ」なんて言葉があって、鋭い視線だからつり目だろうと思い込んで描いていた。ところが、改めて羽生さんの写真を見るとやさしい垂れ目。思い込みは怖い。寝癖の有無といった髪形も含め、羽生さんの絵はちょくちょく変えてきた。
毎週、締め切り直前は軽い地獄だ。近所のファミリーレストランで新聞を読みながらアイデアを練る。浮かばなければ自転車に乗る。それでもダメなら別のファミレスに、さらに別のハンバーガー店へ――。仕事場に向かうのはネタができてからと決めている。もう何も思いつかないんじゃないか。そんな不安と戦いながらの31年だった。
困ったら大山康晴先生
ネタの面で、最も助けてもらったキャラはやはり大山先生だ。大山先生なら、あらゆることを無限のエネルギーで解決してくれる。私のそんな勝手なイメージを許してくれる。亡くなられてもう23年になるが、私は死ぬまで大山先生のことを描き続けるだろう。
ファン目線で漫画を描いてきたので、棋士には近づきすぎないようにしてきた。取材して誰も知らないことを描くより、将棋ファンなら誰もが知っている情報をもとに描いた方が伝わりやすい。特定の棋士と仲良くなることが、“毒”のある漫画を描く際のブレーキになってもいけない。
だが昭和棋界の語り部であった河口俊彦七段(追贈八段)が1月に亡くなり、棋士と距離を置くようにしてきた私にも別の思いが芽生えてきた。「羽生さん、私は勝手に想像してあの時こんな風に描きましたけど、本当はどんな気持ちだったんですか?」。長年将棋界を見てきた一人として、一度聞いてみたいような、やっぱり聞くのが怖いような。
(ばとるろいやる・かざま=漫画家)
[日本経済新聞朝刊2015年3月16日付]
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