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UAプロデュースでも知られる音楽家・ヤンプ・コルトインタビュー 南国で受けた衝撃、バリ島やガムランの豊さとは
ベースを中心に様々な楽器を演奏するミュージシャン、プロデューサー、レコーディングエンジニア、ヤンプ・コルト。過去のアーティスト名「藤乃家舞(ふじのやまい)」の作品も含めて、これまで8枚のソロアルバムをリリースしているヤンプ・コルトとは、果たして何者なのか? UA、一十三十一、やくしまるえつこなど、女性ボーカリストたち8人をフィーチャーしたニューアルバム『チュウイング』がリリースされるこの機会に、これまであまり語られることのなかった彼の経歴と、音楽家としての独特なスタンスを、彼の発言をもとに、紐解いてみることにしよう。
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■UAとの繋がりを深めたのは、インドネシアの音楽
10代の頃にベースを習い始め、高校2年生のときには早くも六本木ピットイン(老舗のジャズクラブ。2004年に閉店)でプロのベーシストとして活動していたヤンプ・コルト。活動当初の「藤乃家舞」という名義は、高校時代につけられたあだ名に由来しているのだとか。
ヤンプ・コルト:毎日怪我で包帯をしていて、手が治ったら足、その後は風邪をひいてマスク、そして眼帯みたいな時期があって……バンド仲間につけられました。僕は忌野清志郎さんが好きだったから、「フジノヤマイ、いいじゃん!」って気に入って、それで名乗るようになったんです。
2003年に自らのレーベル「Cemetery Records / FAR」を立ち上げ、それと同時に自身がオーガナイズする即興音楽のイベント『サノバラウド』をスタート。山塚アイ、内橋和久、大竹伸朗、UA、U-zhaan、梅津和時、浅野忠信、中西俊夫、一十三十一、サム・ベネットなど、様々なミュージシャンと共演を果たす。しかし、そんな多岐にわたる活動を展開してきた「藤乃家舞」の名が、多くの人に知られるきっかけとなったのは、やはりUAへの楽曲提供とプロデュースだろう(「藤乃家舞」名義で、UAによる2004年のアルバム『SUN』、2007年の『golden green』、2009年の『ATTA』に参加している)。現在も親交が厚く、ヤンプ・コルトとしての作品にも参加しているUAとの出会いについて、彼は次のように語ってくれた。
ヤンプ・コルト:UAと最初に出会ったのは映画館でした。デレク・ジャーマン監督の作品と彼へのオマージュ作品の上映があって、その監督たちが、UAと僕の共通の友だちだったんです。UAは、僕がインドネシアでレコーディングしていることを知ってくれていて、「インドネシアの音楽のなかでも、特に変わってるのとか、新鮮な音楽があったら聴かせてね」と言いました。それで、インドネシアの伝統的な武術「プンチャックシラット」のためにバリのガムランオーケストラグループ「スダマニ」が演奏した音楽を、彼女に渡したんです。そしたら3か月後くらいにUAから電話が掛かってきて、「曲をつくって」と言われました。それで一緒にバリでレコ―ディングをすることになったのですが、西洋の音階とはまったく違う楽器に囲まれてるのに、一発演奏で歌い上げてしまうUAの姿に、とても感激したことを覚えています。
■ヤンプ・コルトがバリ島で知った録音しきれない音楽
ところで、UAとの交流のきっかけともなったインドネシアの音楽とは何なのか。彼は20代の半ばに初めてインドネシアのバリ島を訪れ、そこで今日の彼の音楽性に繋がるような、ある重要な体験をしたという。
ヤンプ・コルト:それまではバリ島がどこにあるのかさえ知らなかったのですが、当時のガールフレンドに、「多分あなたはバリが好きだと思うから」と誘われたんです。現地で最初に友だちになったバリ人が、偶然にも「スダマニ」の中心メンバーだったのですが、彼の家に初めて行ったときに驚いたことがあって。小学生が笑いながら、遊んでいるように、見知らぬ楽器を超絶テクニックで演奏していたんです(彼はその後、高校生になったとき、UAのレコーディングのリーダーになる)。さらに、「本当の演奏は神様のためにするんだ。寺においでよ」と言うのでついていったら、名前の分からない楽器群の中、綺麗な衣装で地面に座って大勢で演奏しているオーケストラがいました。その演奏を、オーケストラのど真ん中に座って聴いてみたら、それはまさに「アンプラグドボディーソニック」でした。瞬間瞬間で現れては消える高音とその倍音と、身体中に響き渡る低音とその倍音……それは僕が知っていた西洋音楽理論では、まったく説明のつかない音楽でした。そして、「世の中には、録音しきれない、現地にやって来て体感するしかない音楽がある」ということを知ったのです。
■新宿にはない、バリ島の人々の暮らしと笑顔
バリ島で受けた衝撃は、音楽だけではなく、現地の人々の音楽に対する向き合い方にもあったという。
ヤンプ・コルト:僕は新宿生まれの新宿育ち、三代目の江戸っ子なので、ものすごく短気だったし、まわりもそうだったから、それが普通だと思っていました。「全員がとにかく笑っている」なんて、新宿ではありえません(笑)。なのにバリ島で出会う人たちは、本当にみんな笑顔で接してくれたし、音楽が生活と同じところにあるのが当たり前になっている。ただ、「神様は行動の中にいる。だから怒ってはいけない」と言われ、「なるほど」と思っているそばから、意外と怒っている人たちも結構いたりして(笑)。そういう「矛盾」も含めて、音楽だけじゃなくて、暮らし方の点でも影響を受けたと思います。
そんな彼が、「藤乃家舞」ではなく「ヤンプ・コルト」を名乗るようになったのは、2009年頃のこと。「ヤンプ・コルト」――この不思議な語感の響きを持ったアーティストネームの由来について、彼はこんなふうに説明してくれた。
ヤンプ・コルト:ある日、「藤乃家舞」をアーティストネームから戸籍名にしようとしたら、家族の猛反対にあって(笑)。で、どうしようかなと思っているときに、たまたま中学生の頃に美術の課題でつくった「レコードジャケット」が、棚の奥から出てきたんです。それは、ベースを弾く前の僕自身が描いた「自分の架空のアルバム」だったのですが、メンバーとして「中西俊夫」(プラスチックス)とか「梅津和時」(RCサクセション、生活向上委員会)とか書いてあって……今では実際に一緒に演奏している人たちばかりで驚きました。そのアルバムのアーティストネームが、勝手な思いつきで付けた「yamp kolt」だった。「僕は今でもその架空のアルバムをつくり続けているのかもしれない」と思って、「ヤンプ・コルト」と名乗ることにしました。
■2011年、「豊さ」を求めて新宿から沖縄へ移住
そして2011年、やくしまるえつこ、原田郁子、一十三十一、UA、ACOなど8人の女性ボーカリストをゲストに迎えたアルバム『yes』をリリース。しかし、そんな彼に、さらなる転機が訪れる。生まれ育った新宿から、現在の拠点である沖縄に住居を移したのだ。
ヤンプ・コルト:小学校の頃、父の仕事の関係で短期間沖縄で過ごしたことがあるのですが、その空気感が忘れられなかったんですよね。その後20歳ぐらいのときに、糸満小型船舶造船所というところにお邪魔したのですが、そこでは17時頃になるとどこからともなく人が集まって来て、海沿いで地鶏と冬瓜のスープがつくられ、グループの中の三線弾きの方が演奏を始め、唄者が歌い出します。そして、そこにいる全員が飲んで歌って踊り始めるんです。思わず「僕も三線を弾いてみたいです」と言って、見よう見まねで弾いてみたら、みなさん踊ってくれました。「豊か」っていうのはこういうことなのかと感じて、「いつか沖縄に住んでみよう」と思いました。
それから歳月が流れ……最終的に彼の背中を押したのは、2011年の震災だったという。
ヤンプ・コルト:2011年当時、僕は様々な理由で東京を離れたかったのですが、どこへ行こうか決めあぐねていました。新宿を嫌いになったわけでもなかったですし。震災の日は、前作『yes』があと10日ほどでリリース、翌12日にあるUAとのライブの準備を自分のスタジオでやっていました。そこに地震がきて……スタジオや機材にもダメージがあり、その復旧作業をしていたら、原発が4つ爆発したんです。それで「一旦は西に行こう」と。その後3か月ほど、今作『チュウイング』のジャケットの絵を描いてくれた、できやよいちゃんが住んでいる大阪に行きました。その期間にやよいちゃんがあの絵を描いてくれたんです。様々な理屈を越えて「これは何かのきっかけである」と感じて、「一度沖縄に行ってから先のことを考えよう」と、片道切符で沖縄に来て……そのまま現在に至ります。
■「『アルバムをつくろう』と思ってつくることは、ほとんどありません」
そんな彼が、沖縄に拠点を移して以降、初めて生み出したのが今回のアルバム『チュウイング』だ。前作同様、8人の女性ボーカリストをフィーチャーしながら、数々のゲストミュージシャンを招いて1曲1曲丁寧につくられた本作。作詞作曲、演奏はもちろん、レコーディング、ミックス、デザインなどもヤンプ・コルト自身が担当するこの作品は、果たしてどんな過程のもとに生み出されていったのだろうか?
ヤンプ・コルト:僕が大事にしているのは、「何も考えない」ということです。なので、「アルバムをつくろう」と思ってつくることはほとんどありません。日々演奏し録音する曲をたまに並べて聴いて、「あ、この10曲を並べたらアルバムになる」と感じたらアルバムにします。あくまでも「音ありき」でつくっているから、そもそもアルバムのテーマやコンセプトはないんです。シンガーたちとのつくり方としては、ほぼ最終形に近いデモをひとりでつくり、スコアを書いて、それを歌詞と一緒に渡します。たとえば、UAならUAの希望でメロディーラインはピアノやオルガンで入れたり、一十三十一ちゃんには「デモは歌って」と言われるので自分で仮歌を歌ったり、そういった細かいやり方はシンガーによって様々ですが、曲自体の説明は訊かれるまで自分からは一切しません。
■「つくる」のではなく、「導かれて生まれる」音楽の魅力
本作の1曲目に収録されている“ナヒミ”という曲。ウクレレとタブラが疾走するアップリフティングなビートに乗せて、スティールパン奏者でもある女性、トンチの歌が快活に響くこの曲は、「テキトーカタカナ」から導かれたサウンドとストーリーだという。
ヤンプ・コルト:“ナヒミ”は、20代後半の頃、インドネシアを頻繁に訪れていたときにできた曲です。現地の音楽に深く触れ、試しに自分もケチャ(バリ島の伝統音楽。大勢が円陣を組んで「チャック、チャック」と掛け声の合唱をする)のようなボイスパーカッションをやってみようと思い、声でベースやドラム、エフェクト音やシンセ的な音などを録音していた中に、テキトーカタカナでこの歌のメロディーも入っていました。そのメロディーにのせて、「知っているインドネシア語を当てはめてみよう」と歌詞を書いてみたら、「ナヒミ」の部分だけ、どうしても当てはまる言葉が思いつかなかったんです。「ナヒミ」以外の部分の歌詞をザックリ日本語に訳してみたら、こんな感じでした。<パパイヤ 航海のサインとルート 明日は声の通った船長が必要 / ほっそりしたタメ息があふれて神聖な感じ / “ナヒミ”イエイ!イエイ! / “ナヒミ”は夢からの贈り物 / “デイジー”はノイズの暗号 / “ナヒミ”は金言格言>。それをあとから読んでみてテキトーカタカナだった「ナヒミ」は、固有名詞で女性の船長のことなんだと分かったんです。この曲に限らず、「先にある音や歌に導かれてゆく」という感じが、僕はとても好きなのだと思います。
■女性のボーカリストにこだわる理由とは?
ヤンプ・コルトが生み出すのは、U-zhaan(タブラ)、スガタイロー(Pf)、後関好宏(Sax / 在日ファンク)、内橋和久(Gt)などのメンバーたちが、多彩な音色で鮮やかな色合いを加えてゆく、無国籍なポップソング。しかしその中心にあるのは、あくまでもメロディーである。しかもそれを歌うのは、UA、一十三十一、こやまよしこ(ex.ネーネーズ)、さや(テニスコーツ)、やくしまるえつこなど、8人の女性ボーカリストたち。ヤンプ・コルトが女性ボーカルにこだわる理由とは、果たしてどんなものなのだろう?
ヤンプ・コルト:極端な言い方をすると、「歌とは女性が歌うものだ」と僕は感じているのですが……これの説明は、非常に難儀です(笑)。まず、「自分の好み」であることは間違いないです。そして、「直感」としか言いようがないのですが、12~17歳くらいのときに、女性はみな「音楽さん」から特別な歌う「何か」を与えられていて、その気持ちを大人になっても持ち続けることができた人が、シンガーなのだと僕は思い込んでいます。自分でも「何を言っているのやら」と思いますが、ときに思い込みは重要です(笑)。でも今は、「近いうちに自分が歌うアルバムをつくろう」とも思っています(笑)。いつも矛盾の上に、また矛盾がある。音楽とは、常にそういうものだと思っているんです。
先ほど言っていたバリ島の人々の「矛盾」ではないけれど、ヤンプ・コルトの音楽には、聖と俗、あるいは狂騒と静寂といった要素が、常に混在しているように思う。しかし、それが相反するのではなく、そのすべてを大らかに受け入れるような懐の広さ――ある意味、南国の人々の大らかさにも似た解放感が、彼の音楽には存在しているのだ。
ヤンプ・コルト:それは、「すべて同じで、一つひとつ違う」ということかもしれません。僕の興味は、常に「新鮮」「聴いたことがない」「分からない」という方向に向いていて、知らない自分に出会うことが大事だと思っているんです。ただ、それを思いながら作業を続けているうちに、ふと学生のときにつくった曲を思い出して聴いてみたら、それが本当に新鮮なこともあるんですよね。何の楽器の演奏もできない自分、西洋音楽理論を知らない自分、ミックス機材を触ったことのない自分、パソコンを触ったことのない自分。架空のアルバムで自分を「yamp kolt」と勝手に名付けた頃につくった曲は、今の僕にとって、まさしく新鮮そのものでした。これもある種矛盾した話なのかもしれません。本作に入っている“sleep too tight”は、僕が高校生のときにつくった曲なんです。種類の違う「新鮮さ」の同居は、また違った新鮮さを感じさせてくれます。
■「僕は音楽を信じています。だからこそ、音楽を信じている方々に届けたい」
「旅に出よう!歌を連れて!ココロ、オドル、船の旅!」――そんなキャッチフレーズとともに、意気揚々と送りだされる、ヤンプ・コルト4年ぶりのアルバム『チュウイング』。そのアルバムに寄せて、最後に彼は、こんなふうに語ってくれた。
ヤンプ・コルト:録音した曲を並べて聴いたら、なぜか歌詞がみんな「船旅」のイメージでした。そして、「きっと自分は旅の途中なんだな」って気づいたんです。これはいつもなのですが、自分の録音物を聴くことによって、「ああ、自分は今、こんなことを感じているんだ」と気づきます。そして、「どうせなら旅を楽しもう」と感じました。僕は音楽を信じています。音楽を信じている音楽家たちに囲まれていることを、とても幸せに思います。だからこそ、音楽を信じている方々に、このアルバムを聴いていただきたいです。