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戦死者印鑑遺族へ届く
- 「よく見つけてくれたね」。遺品を受け取り、学生らに感謝する灰原信之さん(右)(29日、久米南町で)=片岡航希撮影
- 沖縄県糸満市で見つかった灰原利雄さんの印鑑=片岡航希撮影
- 灰原利雄さん
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◇久米南・灰原さん
太平洋戦争末期の沖縄戦に従軍し、26歳で戦死した久米南町出身の灰原利雄さん。最期の地で見つかった印鑑が29日、同町の遺族へと届けられた。戦後生まれのおい、信之さん(68)にとって、思いがけず受け取った遺品は、70年の時を経て初めて叔父と邂逅(かいこう)するきっかけとなった。(望月尭之)
■激戦の末の死
利雄さんは1944年11月、中国から沖縄に転戦。沖縄防衛を担う第32軍で、兵器を供給する第32野戦兵器廠(しょう)に所属した。45年4月に上陸した米軍の猛攻に遭い、32軍は糸満市まで南下。日本側だけで、犠牲者は民間人も合わせて二十数万人に上る。
戸籍などによると、利雄さんが同市で亡くなったのは6月20日。その3日後には軍司令官が自決し、事実上、日本軍の組織戦は終結しており、利雄さんがギリギリまで戦闘に参加していたことがわかる。
生前の利雄さんを知る近くの中力政子さん(86)は「私たちが夕方まで遊んでいると、『早く家に帰りなよ』と優しく語りかけてくれた」と振り返る。「これで灰原さんのお宅も、終戦を迎えることができたのではないかと思う」
■肌身離さず
「灰原」と刻まれた印鑑は、「ガマ」と呼ばれる壕(ごう)の入り口付近の土中に埋もれていた。給料を受け取る際の押印のために、戦場でも必要だったらしく、亡くなる直前まで大切に持っていたことをうかがわせた。
立命館大1年市場涼さん(19)ら調査にあたった学生ら9人から印鑑を受け取ると、信之さんは楕円(だえん)形に彫られた名字をみつめ、目を潤ませながら「ありがとうございます」と感謝した。
その後、学生らと近くの墓所に向かい、花とともに印鑑を手向けると、信之さんは「叔父さん、やっと帰って来れたな。またゆっくりと時間がある時、沖縄のことや子どもの頃のことを教えてください」と静かに語りかけた。
■語り継ぐ戦争
学生らは、戦没者の遺骨収集にあたるNPO法人などに所属している。メンバーの一人、国学院大4年今泉ゆりかさん(22)は「終戦から何十年もたつのに、まだ故郷に戻れない遺骨がたくさん残り、それを待っている遺族がいる。印鑑も70年もの間、誰かに見つけてもらうのを待っていたと思う」と涙を浮かべた。
市場さんは「まだ戦地には眠ったままの戦没者が大勢いる。これからもできる限りのことをし、同世代やもっと若い人たちにも参加を促していきたい」と決意を新たにしていた。
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