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「クラムボンの現場が一番過酷」。結成20年目のクラムボンが語る、バンドを続けてこられた理由
クラムボンのアルバムを聴いて失望させられたことなんてこれまで一度もないわけだが、それにしても5年ぶりのオリジナルアルバムとなる今作『triology』における一音一音の瑞々しさ、疾走感、爆発力には心底驚かされる。結成から20年を迎えてもなお、ミト、原田郁子、伊藤大助の三人はまるで「無」から「宇宙」を生み出すようなダイナミックな音楽的運動の中で楽曲を、歌を、生み出し続けている。今回のインタビューでは「どうしてクラムボンだけがそんなことを可能にしているのか?」ということに焦点を絞って、あえてサウンドのキーパーソンのミトではなく、原田郁子と伊藤大助の二人に話を訊いた。ここ数年来、各メンバーの課外活動はますます盛んになってきているが、それでも彼らは「一番過酷な現場」であるクラムボンで音を鳴らし続けることを自らに課している。そこには一体どんな動機があるのだろうか?
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■この20年で、バンドをやったり、音楽を聴いたりする環境って本当に激変したんだと痛感します。音楽の世界が過渡期に入る直前の、ギリギリまだシンプルだった時代に、あの頃の自分たちはいたんだなって。(原田)
―「クラムボンが20周年」と最初に聞いた時は、「え? もうそんなに?」ってちょっと驚いたんですけど、三人で一緒に音を出したのがちょうど20年前の1995年ということですね。
原田:バンド名が付いてからは20年になりますね。専門学校で出会ってからは、22年くらい。
伊藤:インディーズで初めて自分たちの作品を出したのが98年。で、メジャーデビューは99年。
―その時代にデビューして、今も活躍しているバンドは他にもいますけど、改めてクラムボンのここまでの道程というのはとてもユニークなものだったし、ある意味、非常に先駆的な存在だったと思うんですよね。当時の日本はまだCDがすごく売れている時代でしたが、クラムボンはかなり早い段階から活動の重心をライブに移してきたようにも見えましたし。そう考えると、単純にバンドが長く続いているというだけじゃなくて、いろんな必然が積み重なって今の場所にいるんだなって思うんですよ。
伊藤:去年の春から、僕はメンバー三人が出会った母校で授業を受け持っているんですよ。自分が10代の頃、ぼんやりと「音楽をやりたいな」って思って札幌から東京に上京して、クラムボンとして活動していく中でだんだんとはっきり「こういう音楽をやりたい」という意志を持つようになって、今こうしてその経験から学んだことを10代の学生に提供している。そう考えると、何かが一周したような気持ちになりますね。
―生徒たちは、まさにクラムボンの活動歴と同じ、20歳くらいとかですか?
伊藤:そう、ちょうど今自分が教えている学生は95年生まれだったりするんですよ。「そうか、君は95年生まれなんだ」と思わず口走ってしまったりして。若い頃の自分が歳上の人の昔話に興味がなかったように、きっと今の子たちも僕の言葉に興味ないんだろうなって思うんですけどね(笑)。
原田:今、大ちゃん(伊藤大助)の話を聞きながらいろいろ思い出してたんですけど、当時は携帯電話もパソコンもなかったから、今みたいにSNSでその人の日常を垣間見ることはなかった。会った時に受け取った印象がすべてなんですよね。だから、クラスで演奏する授業があると、その人が出す音がそのままその人の印象になる。当時の自分は殻に閉じこもってたから、人とコミュニケーションをうまくとれなくて、ほとんど音だけを頼りに、みたいな感じでした。
伊藤:そうだね。当時はインターネットで音楽を発表して、そこから即座に聴いた人からのリアクションがきたりするなんてことも想像できなかった。
原田:音楽に使えるお金もそんなにないから、なけなしで買ったレコードやCDをアホみたいに何度も何度も繰り返し聴いたりして。そう考えると、この20年で、バンドをやったり、音楽を聴いたりする環境って本当に激変したんだと痛感します。音楽の世界が過渡期に入る直前の、ギリギリまだシンプルだった時代に、あの頃の自分たちはいたんだなって。
■僕は音楽ってリスナーの方にそのまま渡して、そこで育っていくものだと思っているから。(伊藤)
―クラムボンがデビューした当時、自分は日本のロック雑誌の編集をしていたんですけど、アルバムを作って、それをメディアで積極的にプロモーションして、そのアルバムのツアーをして回るっていう、いわゆる当時のルーティンなバンド活動から、クラムボンはある時期を境にちょっと距離を置くようになったという実感があるんですね。「今だから言える」じゃないですけど、その頃、バンドの中ではどんな変化があったんでしょう?
伊藤:もちろん、最初はただ音楽がやりたくてバンドを始めたわけですけど、それを仕事として意識するようになってからは、バンドとして「もっとこうありたい」「こういうことをしたい」っていういろんな思いが出てきて、わりと正直にそれを実行してきたと思います。この三人の体制はずっと変わらないですけど、バンドとして何か無理が生じる前に、バンドそのもののかたちを変えてきたというか。
―音楽シーンの変化に対応していく、という意識ではなく、あくまでその都度その都度の自分たちの思いを正直にかたちにしていってたと。
伊藤:そうですね。それがその当時の音楽シーンの主流であるか傍流であるかということは、あまり考えてこなかったです。バンドの中で誰かから新しい提案があったら、「じゃあ、やってみよう」ってやってきただけで。バンドの方向性についてガッツリ話し合ったような記憶はほとんどなくて、三人で出した音を通して会話をして、そこから自ずとバンドの方向性が決まっていった感じだと思います。
原田:デビューしてから、雑誌の取材やラジオに出て、写真を撮られたりメイクをしたり。いわゆるプロモーションと言われることを初めてやるんですけど、あまりにも不慣れで。「どうしてクラムボンなんですか?」「どうしてギターがいないんですか?」「どうしてこのタイトルになったんですか?」って次々と訊かれるんですけど、なんにもうまく答えられない。ぱっと思いついたり、たまたまそうなったり、そんなに考えてなかったんですよね。自分たちのことを把握してなかった。今にしてみると、「わかりにくかったんだろうな」と思うんですけど、当時は余裕がないから、インタビューを受けては落ち込んで、しょっちゅう体調を崩してたんですよね。
―そうだったんですね。
原田:レコード会社は「こういうふうに売り出したい」っていうイメージが明確にあったみたいなんですけど。
―それは、例えば?
原田:まさに『JP』(1999年)のジャケットのような。女の子ボーカルで、男子二人はそのバックでという。
―あぁ、それこそ当時三人体制だったドリカムとかがものすごく売れていた時代ですもんね(笑)。
原田:その違和感……「三人は対等である」という、たったそれだけのこと、自分たちにとってはあまりに普通のことを、どうやったら伝えられるか。でもそれは、一生懸命こういう場で言ってるだけじゃダメで、最初の1音目が鳴った時に、バンドごと伝わるくらいの音を鳴らせなきゃダメだろうって。それで、まずは音楽だけに集中する環境を整えようと、小淵沢のスタジオに籠るようになったんです。だから、最初から今みたいな活動をしていたわけじゃなくて、何度も翻弄されながら。そう言えば、インタビュアーの方に「すみません……」って泣かれたことがありました。
―え?(笑) それは、みなさんの受け答えが素っ気なさすぎてってことですか?
原田:いや、想定してきたようなことを私たちが全然言わないから、困らせてしまったみたい。逆に、「こっちがすみません」なんですけど(笑)。
―わかりやすく近寄りがたくて尖ってるバンドとかでは、そういうことってたまにあったりしますけど、クラムボンって音楽的に温かくて優しいイメージがあるから、ビックリしたのかもしれませんね。
原田:ああ、そういう印象の向こうでは、めちゃくちゃ尖ってたと思います(笑)。
伊藤:自分たちが把握しきれていない要素がたくさんあったと思います。一人で作っているわけではないし、音を出す前に三人の中でコンセンサスのようなものがとれているものでもなかったりするから。一人じゃわからないものができるからこそ、この三人でやっている意味があると思ってきたし。それが作品を通して広がっていくことがおもしろいんですよね。僕は音楽ってリスナーの方にそのまま渡して、そこで育っていくものだと思っているから。
■周りが凍りつくような瞬間はもちろんあります。特にミトくんと私は、しょっちゅうぶつかってきたし。でもそれは「喧嘩」とは違うんですよね。(原田)
―そういう話を聞いてつくづく思うのは、クラムボンって、バンドを20年間運営してきたというよりも、三人が出す音に導かれた結果としてここまでやってきたってことなんですね。
原田:うん。でも三人だけでここまでこれたとは思ってないです。豊岡さんというマネージャーであったり、SUPER BUTTER DOG、ハナレグミをはじめとする、学生時代から近かった人たち、たくさんのミュージシャンとの出会いがあったから、切磋琢磨してこれました。
―途中、三人の関係がギクシャクしたようなことは一度もなかったんですか?
原田:ギクシャク? って何だろうね?(笑)
伊藤:わからないよね(笑)。
―今日はここにいらっしゃらないミトさんも含め、みなさん個々でも非常に精力的に活動をされているわけですよね。そういう意味で、「もうバンドとしての活動には戻らないかも」みたいなことが頭をよぎったこととか?
原田:周りが凍りつくような瞬間はもちろんあります。特にミトくんと私は、しょっちゅうぶつかってきたし。でもそれは真剣だからで、「喧嘩」とは違うんですよね。「自分のことを押し通す」っていうのとも違う。うーん……あえて言葉にするなら、「いつ終わってもいい」と「ここで終わってたまるか」が、両方ある。ずっと。
伊藤:いい時も悪い時も、「クラムボンをやる」っていうのはみんなどこかにあったと思うんですよ。自分自身も、「クラムボンをやるために、今の自分はどうすればいいのか?」っていう考え方をするようになっているし。「もういいや」って思ったことはないし、クラムボンの活動はしんどければしんどいほど、そこに続けていく意味があると思っているから。
原田:いろいろな活動をやってきた中で、クラムボンの現場が一番過酷なんですよ。また次に三人で集まって一緒に音を出すまでに、修行の必要があるというか。ソロをやったり、他のミュージシャンの方とセッションをしたりして、個人的にちゃんと筋力をつけておかないと太刀打ちできないというか。三人の中には常に闘いみたいなところがあるんです。
■作品に賛否があるのは当然のことだし、いい評判だけを集めていい気になってもしょうがないし、そういうために音楽をやっているわけじゃないので。(伊藤)
―だからこそ、今回の5年振りのオリジナルアルバム『triology』も、これだけ素晴らしい作品、新鮮で漲った作品になっているんでしょうね。
伊藤:まぁ、5年という間隔は長いですよね(笑)。前に、『Musical』(2007年)をリリースした時に、知り合いから電話があったんですよ。「今、目の前に昔のクラムボンが好きで、久々に今回のアルバムを聴いた人が感動して泣いてるんだけど、ちょっと電話代わってくれない?」って。要は、昔のクラムボンの作品は好きだったけど、セッション中心で曲を作るようになってから興味がなくなって一度離れたと。でも、久々に新作を聴いてみたらそれがとてもよくて、一度離れていたことを謝りたいと(笑)。正直なところ、困りましたね(笑)。
―(笑)。それで伊藤さんは何とおっしゃったんですか?
伊藤:「困った」というのは、その方が僕に謝ることなんか何ひとつないのに、という意味です。言いたいことは大体わかるけども、むしろ、素直に向き合ってくれてありがとう、とお礼を言わせてもらいたいくらいで。好きな時は好きと思って聴いてくれれば嬉しいし、そうじゃない時は無理しなくてもいいし、こちらとしては「これからもよろしくお願いします」としか言えないですから。だから、こうして今回みたいに5年振りにアルバムを出すことで、新しい作品と共に「元気にやってます」ということを示せればいいかなって。作品に賛否があるのは当然のことだし、いい評判だけを集めていい気になってもしょうがないし、そういうために音楽をやっているわけじゃないので。
原田:こうしてアルバムを作らせてもらえる場があること、「お前らもう少しやってみろ」って言ってもらえることって、今の時代、簡単なことではないから。感謝の気持ちしかないですね。うまく言える自信がないんですけど……私たちってプレイヤーでもあるけど、リスナーでもあるんですよね。
―「リスナー」というのは、自分たちの音楽のリスナーってことですか?
原田:音楽自体の。だから、三人の間にも見えないけど音楽というスペースがあって、聴いてくれる人との間にもあって。デビューしたばかりの頃は、本当に未熟で、準備もできてなかったから、自分の声とか演奏に幻滅するばかりで。自分たちの畑で作った野菜を美味しいと思えないって、一番マズイだろうって。そこが循環してくるまでに、まず誰よりも自分たちが「いいね」っていうところまで持っていくのに、やっぱり時間がかかった。そういう、半分リスナー的発想で生まれたのが、『Re-clammbon』(2002年、2009年にリリースした、セルフカバーアルバム)だったり、カバーアルバムだったりするのかな。
―なるほど。
原田:その一方で、いろんな場所でライブをしていく中で、「どんなところであっても三人が鳴らせばクラムボンの音になる」という経験を積んでいくというか。今年は節目ということもあって、オリジナルアルバムを出そうという話は、2013年のツアーの頃に話しました。
―前作のリリースからの5年間も、決して動きが止まっていたわけではなく、いろんな経験や活動を積み重ねてきていたわけですもんね。制作はいつから入ったんですか?
原田:実際にミトくんから新曲のデモが届いて、曲作りが始まったのは、去年の1月からなんですけど。今回は……歌詞にものすごく苦しみました。
■大ちゃんに「たくさんの人に届けようとする曲じゃなくて、誰か1人にとって特別な歌があってもいいと思うんだよね」って言ってもらった。(原田)
―それだけ書きたいものが溜まっていたということですか?
原田:うーん……とにかくミトくんが作ってきた曲が今まで以上に明確で、鋭くて、音数も展開も多かった。それに引き換え、自分の内側には漠然ともやもやした状態が広がってる。何度も何度もデモを聴いていたら、本当に一文字も出てこなくなってしまったんです。あまりに時間がかかってしまって、「完成してなくていいから、とにかく見せて」って言われて、断片だけ持っていくんですけど、自分がいいと思えてないから、彼がいいと言うわけがない。それで細かく指摘されてまた持ち帰って、という作業を徹底的にやりました。
―その作業が、今回はこれまで以上に厳しかった?
原田:そうですね。最後の最後に、一番難しい曲を作ってた時に、どうしようもなくなって、大ちゃんに「取材させてもらってもいいですか?」って呼び出して話を聞いたんです。大ちゃんの心情を歌に入れられないかなと思って、個人的なことを話してもらって。私はそれをパソコンに打ち込んでいくんですけど、喫茶店で、ぼろぼろ号泣して(笑)。
―え? そんな壮絶な話だったんですか?
伊藤:いやいや、全然(笑)。ただの身の上話なんですけど。たくさん話したんですけど、それがあまり結果的には作品に反映されていないという。そこはなかなか複雑な気持ちになりましたが(笑)。
原田:すみません(笑)。あまりにも生々しかったので。でも、そこから生まれた曲はちゃんとあって、今回は入ってないんですけど、いつか発表できたらと思ってます。そう、その時、大ちゃんに「たくさんの人に届けようとする曲じゃなくて、誰か1人にとって特別な歌があってもいいと思うんだよね」って言ってもらった。そこで、できたのは“バタフライ”という曲。友人を亡くした時のこと、ずっと引っかかっていたことを、膨らませて書きました。
伊藤:これまであまりメンバーの間でパーソナルな話をしてこなかったからこういう言い方をするのは初めてだったけど、「原田郁子という人間が、今、個人的に歌いたいと思う歌を聴いてみたい」って話はしましたね。
―それが「20年目にして」と思うと、なかなか感慨深いものがありますね。
伊藤:でも、きっとこれからも三人で飲みに行ったりすることはないと思います(笑)。
―三人が一緒にやるようになった理由も音楽だし、三人が今も一緒にやっている理由も音楽であると。それが20年間まったく変わらないというのが、クラムボンというバンドなんでしょうね。
原田:どうにかこうにかアルバムができあがって、世に出て、ようやく私たちも、一歩踏み出せるような気がしています。