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東京から一時間の田舎暮らし! 「湘南番外地スローライフ」 (15) 日本初の海水浴場といわれる大磯ビーチについて知る

東京から一時間の田舎暮らし! 「湘南番外地スローライフ」 (15) 日本初の海水浴場といわれる大磯ビーチについて知る 大磯ビーチは何と122年の歴史を誇る

 関東地方もそろそろ梅雨明け、いよいよ本格的な海水浴シーズンがやってこようとしている今日この頃。我が二宮町にも海水浴場はあるが、残念ながら遠浅ではないので、電車に乗って、わざわざ泳ぎに来るようなレジャー客は少ない。かつて、どこかの情報誌に「地元度99%の超隠れ家ビーチ」なんて書かれたこともあるが、いくらなんでも隠れすぎだ。

 そんなわけで、湘南番外地で泳ぎたいという人には、隣の大磯町にある海水浴場を薦めている。子供連れでも気軽に水遊びが楽しめる遠浅で、シャワーや更衣室などの設備の整った海の家もずらり。東京からはるばる日帰りで遊びに来る若者や家族連れも多く、こちらは地元度50%くらいだろうか。

 大磯海水浴場の沖合からの眺め。西湘バイパスの向こうに湘南平や鉄塔が見える

 この賑やかなビーチ、一般に大磯海水浴場という名で知られているが、地元ではもともとの海岸名から北浜とも呼ばれている。すぐ西隣にある大磯港を挟んで、照ヶ崎というもうひとつの海岸があり、大磯という町名はここから生まれたのかと思わせるような磯が広がっている。

 ご存知の方が多いのか少ないのかわからないが、大磯海水浴場は日本で最初の海水浴場といわれている。陸軍の初代軍医総監を務めた松本順によって、大磯に海水浴場がオープンしたのは明治18年(1885年)のこと。その当時はまだ大磯港も存在していなかったため、北浜海岸と照ヶ崎海岸は繋がってひとつの海岸線を成していたわけだが、松本が海水浴場に選んだのは、北浜ではなく照ヶ崎の方だった。つまり厳密に言えば、現在の大磯海水浴場ではなく、照ヶ崎海岸こそが、日本初の海水浴場ということになる。

 空いていて磯遊びもできるので、照ヶ崎にしか行かない地元ファン多数

ひとりの男の夢が結実した海

 さて、この国内初といわれる海水浴場の誕生には、実は嘉永6年(1853年)にやってきたペリー提督率いる黒船艦隊が関係している。

 黒船の来航に驚いた江戸幕府がすぐさま友好国オランダに蒸気船を発注したことをきっかけに、オランダから長崎へ海軍伝習隊がやってきた。そのメンバーの中に医師がいることを知った松本順は、長崎へ足を運び、その医師から西洋の最新医学を学んだ。

 そのときに読んだ医学本がきっかけで、松本は健康を増進し、体力を向上させるという海水浴の効能を知った。ぜひ自分の国でも海水浴による健康づくりを行ってみたい……そう思った松本は、軍医総監を退官した明治12年(1879年)から、海水浴に適した海辺を探して全国を旅した。

 そして5年後、ようやく出合ったのが、大磯の照ヶ崎だった。地元の人々に海水浴の効能を説明し、説得し、明治18年(1885年)に海水浴場を開いた。松本の考える理想的な海水浴場とは、海水や空気がきれいなだけではなく、波が大きいことも重要な条件だったという。荒くて力強い波が続々と体に当たるような海ほど、健康増進効果がアップする、という考え方なのだろう。

 ちなみに当時は、あくまでも海水”浴”であり、泳いだり水遊びをしたりするのではなく、体力や体調に合わせて1日に数回、各10~20分ほど海中で塩水に浸かるのが目的だった。明治時代の海水浴風景を描いた絵を見ると、海中に何本も棒が立てられ、海水浴客たちはその棒にしがみついている。楽しそうな表情をしている人は見当たらず、どちらかといえば苦行か修行のようでもある。

 そんな海水浴の人気に火がついたのは、2年後の明治20年(1887年)。大磯海水浴場に洋風の大型旅館「梼龍館」が開業すると、松本は知り合いの歌舞伎役者や新聞記者など約300人を招待した。また大磯海水浴場の良さについて説いた海水浴のハウツー本を出版し、宣伝を行った。同じ年に延伸開業した東海道線の旧横浜駅~国府津駅間に大磯駅が設けられたのも、松本の尽力があったからこそ、と言われている。そのおかげで、海水浴客の数は爆発的に増加し、大磯の名は全国に知れ渡った。

興味深い情報ぎっしりの資料館へ

 以上のような日本最古と言われている海水浴場にまつわる数々の事実を、ぼくは大磯町郷土資料館で、改めてじっくりと学んできた。県立大磯城山公園の敷地内にあるこの資料館は、今までにも何度か足を運んでいる。今回訪れたのは、海水浴場関連の資料がたくさん展示されていたことを思い出したからだった。

 旧三井財閥別荘跡地に広がる県立大磯城山公園の大磯郷土資料館

 大磯で歌舞伎役者たちが海水浴をする場面を描いた浮世絵風の絵画。イタゴと呼ばれるボディボードの元祖のような波乗り用の板。茶屋(現在の海の家)の名前が入った布で覆われたコルク製の浮き輪。各茶屋が雇っていたジイヤ(客の安全に気を配ったり雑用をこなしたりする役割の人)や、横縞模様の洋服のような水着を着た女性の写真。などなど、いかにも大磯らしい品々が並ぶ常設展示室は、潮の香りがいっぱいだ。

 そして運良く、というか、このコラムで大磯海水浴場を紹介する気配が伝わったのかと思ってしまうほど驚いたのだが、何と企画展示室では、松本が明治40年(1907年)にこの地で亡くなってからちょうど100年を迎えることにちなんで、企画展「大磯の蘭疇 – 松本順と大磯海水浴場」を開催していた。

 松本が幕末から明治にかけて、いかに重要な役割を果たしたのか。大磯に来てから、海水浴場づくりに情熱を注いだのか。企画展を見ていくと、希少な資料の数々が、それこそ照ヶ崎の打ち寄せる波のごとく、次々と語りかけてくる。明治から昭和にかけて大磯という町が栄えたのも、政財界人や文化人の別荘が数多く集まったのも、すべて海水浴場があったからこそ、ということもよくわかった。

 企画展「大磯の蘭疇 – 松本順と大磯海水浴場」は9月2日まで開催

 歌舞伎役者招待の絵は、團十郎、菊之助などそれぞれの名前入り

 大磯では毎年7月上旬(2007年は7月1日)に、海開きの式典が行われている。場所は、北浜の海水浴場。海水浴の安全や晴天を祈った後で、御輿が浜から海中まで練り歩くのだが、この式典の前に参列者たちは、照ヶ崎へ行って、「松本先生謝恩碑」に黙祷を捧げるのが、昔からの習わしだ。この町の人々の心に、今も恩人は生きつづけている。

  照ヶ崎に立つ「松本先生謝恩碑」。下にあるのは「海水浴場発祥の地」記念碑

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上原健二
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