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<大震災4年>過労で亡くなった外科医の父の遺志 かなえる
2万1000人を超す犠牲者を出した東日本大震災は11日、発生から4年を迎えた。今も約23万人が、仮設住宅などで避難生活を送る。鉄道など一定の復旧の動きはみられるものの、住宅再建の遅れに伴う人口流出、産業復興の遅れ、滞る学校再建など、被災地はなお多くの課題に直面している。東京電力福島第1原発事故の収束も見通せない。日常を奪われた人々は、どのような生活を描けばいいのか。大きな岐路に立っている。
【写真特集】祈りを捧げる人たち
◇宮城・名取の内山さん 責任ある医療「将来一緒に」の言葉
「将来、一緒に働けたらうれしいな」。東日本大震災から1年後、過労のため45歳で亡くなり、震災関連死と認定された外科医の父(内山哲之さん)が私に残してくれた言葉です。父は津波で大きな被害を受けた宮城県石巻市に単身でとどまり、患者さんの治療に力を注ぎました。医療ソーシャルワーカーになって、患者さんやお医者さんの支えになりたい。一緒に働くのは無理だけど、父の遺志は今、私の夢になりました。
2011年3月11日、激しい揺れで宮城県名取市にあった自宅は一部損壊の被害を受けました。けがはなく、隣の祖父母の家に母、弟、妹の4人で身を寄せました。でも、石巻市立病院の外科部長だった父とは連絡が取れませんでした。
父は病院の2階手術室でがん患者の胃の切除手術中でした。そこに津波が襲ったのです。病院の1階部分が水没し、停電する中、懐中電灯の明かりを頼りに手術を続けたと聞きました。
病院には患者さんや職員が取り残され、13日に父たちが約2キロ先の市役所まで、胸まで海水につかりながら歩いて助けを求めました。約150人の患者さんは14日までに全員救出されたそうです。
父と再会できたのは震災の約1カ月後でした。身長187センチ、体重約100キロの大柄だった父が、まるで別人のようになっていました。ひげは伸び放題で、体重は13キロ近くも落ちていました。それでも父は石巻にとどまり、避難所や仮診療所などで仕事を続けました。家族の元に戻るのは数週間に1回程度。一緒に映画を見たり、お茶をしたり、もっと甘えたかった。でも、今やるべきことに真っ正面から向かっていた父は、私から見ても格好よかったです。
父が亡くなったのは石巻市立病院から石巻赤十字病院に移ってほどない12年3月22日でした。単身赴任先のマンションで倒れたと、授業中に連絡を受け、搬送先の赤十字病院に向かいました。「ごめん、倒れちゃった」と冗談を言う父と会えると信じていました。でも、集中治療室の扉を開け、視界に入ってきたのは動かぬ父の姿でした。全身が震え、思わず背を向けてしまいました。過労とストレスによる致死性不整脈が原因とみられ、その年の秋に震災関連死と認定されました。
震災1年前の高校1年の春のことを思い返すようになりました。塾から自宅へ帰る車内で、「将来は何になりたいんだ」と父に唐突に尋ねられたのです。「子どもが好きだから幼稚園の先生かな」と答えたら、父が話し始めました。「患者の心のケアをする医療ソーシャルワーカーっていう大切な仕事があるんだ。人の気持ちが分かるゆきのには向いていると思う」。あの時は「そんな仕事があるんだ」と思っただけでした。
医療ソーシャルワーカーは、治療方針や療養後の生活面まで患者さんや家族の相談に乗る仕事です。大学に進み、ゼミや講義で仕事内容や社会的意義を学ぶ中で、自分がめざすべき目標と考えるようになりました。そのために必要な社会福祉士の資格を取り、医療に携わりたいです。父のように責任感を持って。【聞き手・田ノ上達也】