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徹底検証・徳川埋蔵金の真実 トレジャーハンター・八重野充弘 第3回 水野家親子2代の発掘(後編)
赤城山麓での最初の探索者として知られる水野智義が大正末年に世を去った後は、次男の義治が事業を受け継いだ。といっても、すぐに発掘を始めたわけではない。残された資料を分析して自分なりの解釈と推理でX地点を割り出し、次の1歩を踏み出したのは、ちょうど10年後の1935年(昭和10年)のことだった。
義治が重視したのは『双永寺秘文』の他にもう2点。智義が埋蔵金の守護役と思われる児玉拡平(惣兵衛とも)から聞き出したヒントの一つ「後ろには五輪の松、前には十二社の松があり、はるか向こうには尖った武尊の山が結ぶ」という言葉と、古井戸から見つかった黄金像が赤城の鈴ヶ岳を向いていたという記録だ。
2本の松を結ぶラインと古井戸と鈴ヶ岳を結ぶラインの交点を基点に定め、『双永寺秘文』の十干の文字と数字を方角と距離に置き換えてたどったところ、地中から三州三和土(さんしゅうたたき)でつくった巨大な亀の像が出てきた。
「ここが宝蔵への入り口に違いない」と考えた義治は、亀の像を壊して地面を掘り下げた。それが、彼の苦難の道のスタートとなったのだが、幸いなことに、そのころ彼は有力な支援者を得ていた。近衛文麿内閣のブレーンといわれた後藤隆之助である。
後藤は陸軍の退役者などを中心にした在郷軍人を赤城に集め、義治の下で発掘を手伝わせた。その期間がどのくらいあったのかはっきりしないが、まるでアリの巣のように複雑に掘られた穴は、当時の発掘がいわば国家レベルでの事業だったことを今に伝えている。
筆者がこの穴に入ったのは’74年の暮れのことで、当時の水野家当主の智之によると、総延長が25キロメートルあるということだった。それが事実かどうか確かめてはいないが、’90年に始まったTBSテレビによる大発掘の際に、地下深いところから現れた穴が、この時期に掘られたものであることはまず間違いない。穴の入り口からそこまでの距離はおよそ600メートル。一帯は探索のために掘られた穴だらけなのだ。
ただ、義治が見つけたという三和土でできた亀の像と、その後発見されたほぼ同じ大きさの鶴の像が、本当にあったのかどうか、原型が残っていないので、今となっては確認ができない。
義治の発掘は、太平洋戦争の勃発とともに中断。掘り手がいなくなったためだ。戦後、身内だけで細々と発掘を再開したが、それがいけなかった。縦穴に吊るした縄ばしごが切れて、妻のマスが落下して死亡するという事故を起こしてしまったのだ。…