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『花子とアン』で話題のカフェ、100年生き残った秘訣 斬新な広告宣伝と身の丈経営
現在、約150万人といわれ、現地の政財界や文化芸術界に多彩な人材を輩出しているブラジルの日系人。実は、その最初の移住者と、連続テレビ小説『花子とアン』(NHK)でたびたび登場し話題となった銀座のカフェ店「カフェーパウリスタ」には密接な関係がある。
104年前に同店を創業したのは、皇国殖民合資会社社長だった水野龍氏だ。1908年に最初のブラジル移民を運ぶため、神戸港からサントス港に向けて出航した「笠戸丸」の渡航を手がけ、同船でブラジルに渡った人物である。移民事業は、「1907年、水野皇国殖民会社社長とボテーリョ・サンパウロ州農務長官の間で調印された契約に基づくもの」(資料出所:在サンパウロ日本国総領事館公式サイト)だという。
当時の日本では、コーヒーはほとんど飲まれていなかった。そこで、日本をはじめとする東洋に普及させたいとのブラジル側の思惑もあり、水野氏はブラジル政府からコーヒー豆を「毎年1000俵・10年間無償」で提供されることとなった。さらに大隈重信元総理大臣の支援を受けてカフェーパウリスタを開業したのだ。
●パリ最古のカフェに学び、斬新な広告手法も評判に
同店にとってコーヒーの原材料であるコーヒー豆を無料で仕入れられたのは大きかったが、店としても独自の工夫を重ねた。同店を運営する日東珈琲会長の長谷川浩一氏は次のように話す。
「開業するにあたり、社員2名を1689年創業のパリ最古のカフェ『ル・プロコップ』に派遣して、店の内装、メニュー、接客サービスを学ばせました。当時、当店の従業員は全員男性で『ボーイ』と呼ばれていました。それはプロコップがそうだったからです。大正時代に他の競合店が、女給と呼ばれる女性給仕のサービスを売り物にした時も、当店は男性給仕だけでした」
また、広告宣伝でも工夫を凝らした。
「当時のコーヒーは、一般の方にはなじみがありませんでした。そこでコーヒーの魅力を伝えるキャッチフレーズを考えたのです。それが『鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱き』というものでした」(同)
このフレーズは、フランス革命期の政治家、シャルル・モーリス・ド・タレーランの言葉「よいコーヒーとは、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘い」を日本風にアレンジしたものだろう。だが、情緒的で商品へのイメージも湧く名コピーといえる。 さらに、身長が6尺(180cm以上)の長身男性が燕尾服を着用し、シルクハットに白手袋という正装で紅顔の美少年を伴い銀座通りに立ち、このフレーズで通行人にコーヒー試飲券を配ったほか、盛装した妙齢女性が家庭を訪問して、コーヒーの淹れ方を伝授するなど、同店の宣伝方法は話題を集めたという。試飲券や割引券の配布は、現在でも各地のカフェで行われるが、当時はまだ珍しかった。
こうしたさまざまな工夫や、当時の最先端メディアだった新聞社の時事新報社前という最高の立地もあって、店は大いに繁盛した。最盛期には1日に飲まれたコーヒーが3000杯とも4000杯ともいわれる。なお時事新報は福沢諭吉が創刊し、その後、慶應義塾大学出身者たちによって運営された当時の人気新聞だ。
大正時代のカフェーパウリスタは大都市を中心に、国内は北海道札幌市から福岡県福岡市まで、さらに中国・上海へと店を展開していく。つまり日本で初めてのコーヒーチェーン店でもあった。
こうしたパウリスタが果たした役割や、訪れた文化人の逸話などは拙著『カフェと日本人』(講談社現代新書)に詳しく記したので、興味をお持ちの方はご参照いただきたい。
●2度の試練の後は、「身の丈経営」を続けた
大正時代に隆盛を極めたカフェーパウリスタだが、本店は23年の関東大震災で倒壊。前年にブラジルコーヒーの無償供与の契約が切れたこともあり、チェーン展開を縮小する。昭和に入ると経済恐慌の波にも襲われ、その後は戦争が激しくなっていき都内で数店の運営を続ける一方、コーヒー豆の輸入・焙煎業を主体にした事業に切り替えた。
「海軍のコーヒーは、もともと当社が納入しており、東京・新川の工場から横須賀の海軍基地へ運んでいました」と長谷川氏が語るように、同社は海軍のコーヒー指定業者でもあった。そうした会社だが、戦時中にカフェーパウリスタから日東珈琲という現社名に変更している。これは「敵国用語を使うなという当局の指示に従ったもの」(同)だったそうだ。
やがて終戦。その後の同社は、日本軍の隠匿物資だったコーヒー豆や、進駐軍の横流し品、チコリなどの代用コーヒーをやりくりしながら焙煎業を続けた。贅沢品に指定されて輸入が禁じられていたコーヒー豆の輸入が解禁されたのは、朝鮮戦争が勃発した1950年だ。
ちなみに長谷川氏は、関東大震災の翌年にブラジルに渡った水野氏から経営を引き継いだ2代目社長・長谷川主計氏の長男である。東京大学卒業後に王子製紙に入社して、工場の勤労部や本社の企画部で勤務した。69年、41歳のときに父が死去したため、万感の思いで退社して家業を継いだという。 翌年、同社は本社工場を中央区新川の戦前の工場の跡地に再建した。同年、創立の地である銀座に直営店「カフェーパウリスタ銀座店」を再開し、銀座との結びつきをつなぎとめている。
その後、カフェに関しては銀座店だけで営業を続けた。社業の柱は業務用コーヒーのほか、通信販売で家庭用や職場用のコーヒーの小売り販売に注力してきた。88年には千葉県松尾町に近代的なコーヒー総合工場を建設しており、現在も同工場で焙煎されたコーヒー豆を各取引先に納入している。
つまり、主力事業を地道に太くしつつ、身の丈経営を続けたのだ。
近年の社業は、堅調に拡大している。これは、上智大学外国語学部出身でポルトガル語、スペイン語、英語が堪能な現社長の長谷川勝彦氏が積極的に産地に出向き、現地の志の高い生産者と対話を重ねて、良質なコーヒー豆を買い付けてきた成果が大きい。その品質が通販愛用者からの支持を広げ、同社の看板商品である「森のコーヒー」の愛飲者は15万人に達したという。現在の売上高は非公表だが、業界における中堅焙煎メーカーの位置を占める。
銀座店も、昨年9月に客席を拡大させて新たな一歩を踏み出した。総客席数は大正時代の全盛期とほぼ同じ100席だという。
「100年企業」が世界で最も多い日本だが、その実情はさまざまだ。グローバル企業に成長した大企業もあれば、地道に歩む中小企業もある。もちろんカフェーパウリスタは後者だ。試練に直面した時に守りを固め、幹を太くしたからこそ、生き残ることができたのだろう。
(文=高井尚之/経済ジャーナリスト・経営コンサルタント)