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ドン底を味わった江夏豊の悲壮な決意「俺は二度と人を裏切ってはいけない」
最近プロ野球を観ていると、むなしさを覚えることがある。どの選手にも“言葉”がないのだ。たとえば「ファンの皆さんのおかげです」と繰り返されるだけのヒーローインタビューに、「〇△年組」と称する若手選手同士の幼い絡み。
確かにプレーに関する技術や戦術はレベルアップしただろう。トレーニング方法やアフターケアに対する意識も昔とは比較にならないほど高いという。にもかかわらず、競技自体の質は上がっているのに、観る者の心に訴えかけるものが決定的に欠けているのだ。
2月6日に発刊された『善と悪』(江夏豊・松永多佳倫 共著)にはどっしりと分厚い野球人の姿がある。副題に“ラストメッセージ”とあるように、選手時代のことから引退後の解説、コーチ業について。さらには女性観や「ミスタードーナツで基本の種類を全部買う」(第一章 一匹狼)といった意外な素顔までもが語られている。
◆他人に対する節度とデリカシー
そんな江夏のイメージといえば“孤独な一匹狼”。しかし本書は「俺は野球をやっているときでも孤独なんて思ったことない」(第一章 一匹狼)という思いがけぬ告白から始まる。
だからこそ人との縁を大事にしてきたのだという。「けったくそ悪い人間」もいたけれども、その中で出会えた良い人とのつながりを貴いものにしなければいけない。それは当然次の世代にも引き継がれていく。そこに彼のデリカシーが際立つのだ。
今春のキャンプで阪神タイガース臨時投手コーチに就任した際の心境を次のように語る。
< 選手たちはずっとそのフォームでやってきて飯食ってるわけよ。それを変えるっていうことは、一歩間違えれば生活権を奪ってしまいかねない。彼だけじゃなく彼らの後には嫁さんや子どももいる。そういう人達を路頭に迷わせることはしたくないという気持ちがある。>(第三章 師弟)
“指導”という響きに甘えて大人の人生をもてあそんではいけない。そうして自分を律する厳しさは、他者への熱い共感のこもったまなざしともなる。以下のエピソードは『善と悪』における最高のハイライトだろう。
< 例えば、知り合いがやっているお店の経営が大変ということを聞けば、現役時代には店に行って金を使ってやりゃすむんだという考え方やったのが、現役終わって行くにしてもひとりでも多くの人に紹介したほうがいいというのがわかってくるよね >(第二章 血と縁)
< 晩年自分が知り合った建設関係の方に、現場から身ひとつで這い上がって役員までやって辞められた方がいるんだけど、(中略)その方が、終戦の苦しい最中からアンパンがもの凄く好きだったらしい。いい歳になっても12月31日の大晦日に、除夜の鐘を聞きながらアンパンを10個並べて食うのが夢やったって。毎年それをやって、最近は、もう5、6個しか食えなくなってなあっていう話を聞いたとき、もう俺はワーっと叫びたくなるほど嬉しくなった。この人は人生を本当に精一杯生きてこられた方なんだなーと。>(第三章 師弟)
相手に全身全霊で敬意を払いつつ、一定の間合いを保つ。そうしたマナーと距離感の中で磨かれた言葉に誰もが耳を傾けたくなる。その張りつめるような気配りからは、かつて犯した過ちを贖い続けることを誓った男の悲壮な決意が見え隠れする。
< 俺は法律を犯して、罪を犯した人間よ。それがまたちゃんと仕事を与えてもらえる人間になったっちゅうのは、周りの人がやっぱり江夏をもう一度……、っていうことで手を差し伸べてくれたから。だから俺は二度と裏切ってはいけないんだ。>(第六章 罪と償い)
このような男との緊張感あふれるやり取りから、数々のエピソードを引き出した松永多佳倫の粘り強さも『善と悪』に欠かせない要素だっただろう。
所々に見受けられる誤植(P42「ワーリー・フィンガーズ」筆者注・正しくはローリー・フィンガーズ、P217「間が差した」筆者注・正しくは魔が差した)や意味の取りにくい地の文を差し引いても、本書が数ある野球本の中で突出した一冊であることは間違いない。 <文/比嘉静六>