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<地下鉄サリン>事件から20年 教祖逮捕、緊迫の4時間

<地下鉄サリン>事件から20年 教祖逮捕、緊迫の4時間

1995年3月20日の地下鉄サリン事件から約2カ月後の5月16日、オウム真理教代表だった松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(60)は山梨県上九一色村(現富士河口湖町)の教団施設「第6サティアン」で発見され、殺人容疑などで逮捕された。「教祖逮捕」までの4時間を再現した。

【電極付きヘッドギアを着け…】逮捕直後の「教祖」の表情

 「明日の午前2時に来い」

 当時、警視庁本田(ほんでん)(現葛飾)署の巡査長だった牛島寛昭警部補(57)は事件発生直後から築地署の捜査本部に投入され、2日後から始まった教団施設の捜索などを担当していた。招集命令は久しぶりの休みだった5月15日夕。家族と自宅に戻った直後だった。理由は告げられず、機動隊が置かれた場所に来るよう命じられた。

 別の事件に関与したとして逮捕され、碑文谷(ひもんや)署(目黒区)に勾留されていた教団「厚生省」大臣、遠藤誠一死刑囚(54)が「捜査指揮官に会いたい」と言い出したのは数時間後の15日深夜のことだ。

 警視庁捜査1課ナンバー2の理事官として霞が関の本部庁舎に陣取っていた山田正治さん(74)が急行すると遠藤死刑囚はこう言った。「グル(尊師)は第6サティアンの1階と2階の間の部屋にいます。末期がんで死にそうなので、大事に扱ってください」

 16日午前5時半。第6サティアンの捜索は約350人態勢で始まった。遠藤死刑囚の「告白」もあり、1階と2階の間をくまなく捜したが松本死刑囚の姿はなかった。捜査員に疲れが見え始め、約3時間後、捜索は一時中断された。

 牛島警部補は休憩中、ゴールデンウイークのころに2階と3階の間の外壁に信者がカバーのようなものをつけていたのを思い出した。「隠れるなら空気穴が必要。カバーは穴を隠すためでは」。隠し部屋がありそうな場所の天井を壊すと壁のようなものが見えた。同僚が金づちで壊すと、うつぶせの松本死刑囚の頭が見えた。

 「麻原か」

 「はい。瞑想(めいそう)していました」

 隠し部屋は2階天井部分にあり、高さ約50センチ、幅103センチ、奥行き335センチ。逃走資金か箱に1万円札が九百数十枚入っていた。担ぎ出された松本死刑囚は足が震えていた。山田さんは牛島警部補を呼んだ。「お前が見つけたんだ。手錠をかけろ」。時計の針は午前9時45分を指していた。

 山田さんは遠藤死刑囚の言葉を信じ、医師と看護師を同行していた。医師が触診をしようとすると、松本死刑囚は「カルマ(業)がつく」と拒んだ。「君のためにやっているんだ」とたしなめる山田さんに、脈を確認した医師は「大丈夫だ」。末期がんはうそだった。

 あの日から20年。山田さんは振り返る。「首謀者を捕まえなければ事件は終わらないと必死に捜索した。オウムの動きを確実に止めることにはつながったと思う」【松本惇】

 ◇事件、なぜ防げなかったのか

 1994年6月の松本サリン事件後の長野県警の捜査で、警察は、オウムが山梨県上九一色村の施設でサリンを製造し、貯蔵している可能性が高いとみていた。地下鉄サリン事件はなぜ、防げなかったのか。

 当時、警察庁刑事局長だった垣見隆さん(72)は「戦後日本社会には宗教団体への公的機関の関与は抑制的であるべきだとの傾向があり、警察活動にも影響があった。教団は宗教活動を装っており、慎重にならざるを得なかった」と振り返る。

 ポイントはなぜ早期に教団施設を捜索できなかったか、だ。94年3月には宮崎県で旅館経営者が拉致され、同7月には山梨県で元信者の看護師が監禁されていた。警察当局はいずれも教団の関与が濃厚だとみていたが、捜索は見送られた。

 垣見さんは「95年の早い時期に捜索していれば防ぐことができたかもしれない。批判は甘んじて受ける」とした上で、都道府県警が管轄を超えて捜査できなかった当時の警察法の問題を挙げ、「宮崎の拉致事件では、捜査態勢が最も充実している警視庁が応援で宮崎県警の指揮下に入ることも考えたが、うまくいくか疑問だった。もっと柔軟になるべきだった」と語る。

 情報収集の問題も露呈した。警察庁警備局の元幹部は「過激派の動きが沈静化していた時期なのに、監視対象が従来の組織に偏っていた」。翌96年、警察法は警察庁の指示で管轄を超えて捜査できるように改められた。

 しかし、一連のオウム事件を知る同庁元幹部は言う。「新たな脅威が現れたとき、反応できるか。最後は組織を束ねる上層部の感度の問題だ」【川辺康広】

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