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「サラエボ伝説の靴磨き」と呼ばれた父の後を継いで
【AFP=時事】ラミズ・パシッチ(Ramiz Pasic)さん(64)が亡き父から受け継いだ遺産は、帽子2つと眼鏡、馬毛のブラシ、そして靴磨き職人としての名声だ。父親はボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ(Sarajevo)市内で60年間にわたり靴磨きを続け、地元の伝説となった。
戦時下も靴磨き続行、サラエボの「ミソおじさん」 市民に惜しまれ逝く
道路清掃会社で働いていたパシッチさんは、定年退職したときに父との約束を守ることにした。2014年に83歳で亡くなる数か月前に交わした約束だ。「この場所が空いてしまうのは、もったいないだろう」と、父親はいつも自分が靴磨きをしていた路上について語った。「私たちはこの仕事を守るべきだ。約束してくれるか? 」
この会話を交わしたとき、父親はまだ健在だったため、パシッチさんはあまり深刻に受け取らなかった。「父は毎日歩いて仕事に行っていたし、道具一式が入った金属の箱を足下に置き、ブラシで強くたたいて、いつものように客を呼び込んでいた」とパシッチさんは振り返る。「それから磨き終わった後の、仕上げの一磨きのブラシさばきのスピード……。私には一生まねできないだろう。手が見えないほどの速さだった」
パシッチさんの父親は「ミショおじさん(Cika Miso)」の愛称で市民から慕われたコソボ出身のロマ人で、本名はフセイン・ハサニ(Husein Hasani)さん。第2次世界大戦直後にボスニアに移り、靴磨きの仕事を始めるとすぐにサラエボ人の心をつかんだ。「最も悲しい出来事も笑いに変えてしまう」冗談好きな人だったと、息子はいう。
ミショおじさんは1992~95年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中、サラエボ包囲のときも、いつもと同じチトー元帥通りで靴を磨き続けた。今その場所にいるのは、息子のパシッチさんだ。
■父の「仕事場」で
ミショおじさんの評判はサラエボ市役所にも届き、09年には市から勲章とささやかなアパート、それに年金を授与された。いつもいた場所には「サラエボの通りの最後の靴磨き職人ミショおじさんの仕事場」と刻まれた石板が置かれている。同じ場所で今、父親の動きをまねているパシッチさんは「父が残したハードルは高いね」という。それでも「父が使っていたブラシを手に持つと、彼の手に触っているような気持ちになる。私の唯一の財産だ」
パシッチさんは7か月前に妻を亡くし、今は小さなアパートに息子家族と一緒に暮らしている。ボスニアの冬の寒さは容赦なく、サラエボの路上にはほとんど日が当たらない。そのためパシッチさんはスキースーツを着込んで仕事場に現れる。1984年のサラエボ冬季五輪のときに買ったものだ。たいていの人は気付きもせずに通り過ぎるため、最初の客が来るまでに何時間も待つこともある。
客の靴を磨いているときの会話の始まりは、いつも決まっている。父親のミショおじさんについてだ。誰もが彼に関するエピソードを持っている。「彼は靴磨き以上の存在だった。靴をきれいにしておくのは大事だが、それよりも伝説であるミショおじさんとの会話が楽しみでここに来ていた」と50代のビジネスマンはいう。「今はラミズおじさんがいい仕事をしてくれるが、少し違う。彼の父親とそっくりなのは間違いないけどね」
現在、パシッチさんのもとを訪ねる客の大半は、ミショおじさんの常連客だった人たちだ。「靴を磨かないときでも、マルカ通貨を1個か2個(約65~130円))ただ置いていってくれたりする」。受け取っている年金は毎月150ユーロ(約2万円)ちょっとで、少なくともその半分位の額を靴磨きで稼ぎ、その大半を妻の葬式をあげた際の借金の返済にまわす。
妻亡き今、家に帰る理由はほとんどないと語るパシッチさん。「誰にとっても父親との約束は神聖なものだ。体が許す限り、私はここで仕事をする。このいすに座ったまま死ねれば本望だ」【翻訳編集】 AFPBB News