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>レスラーの蝶野さん、育児の体力は別物 40代でパパに

レスラーの蝶野さん、育児の体力は別物 40代でパパに 朝日新聞デジタル7月4日(土)9時40分配信 インタビューに答えるプロレスラーの蝶野正洋さん=瀬戸口翼撮影  プロレスラーの蝶野正洋さん(51)は、9歳の息子と5歳の娘がいる。夫婦ともに40歳を過ぎてから授かった。子育てまっただ中の50代、人生経験を積んでから親になった今の思いは。【動画】エムスタ プロレスラー・蝶野正洋さん=瀬戸口翼撮影 ドイツ人の妻マルティーナさん(50)と出会ったのは、新日本プロレスに入門し、海外修行をしていた20代のときだった。ドイツでのパーティーで酔いつぶれ、介抱してもらった縁で、1991年に結婚した。 長男が生まれたのは、結婚15年目だ。自身が42歳、妻は41歳だった。それまでも子どもは欲しかったけれど授からず、妻と始めた会社が「子どものようなもの」と思ってきた。妻が40歳になった頃、やっぱり子どもが欲しいと不妊治療を始めた。 出産に立ち会った。「産声は今でも耳に残っています。感動しましたよ」。2人で涙を流した。■「恐怖心がありましたね」 赤ちゃんを抱っこするのは、ほぼ初めて。様々な経験を重ねていても、知らない世界が待っていた。 「恐怖心がありましたね。赤ちゃんと2人だけの外出に」 家の中では、抱っこもおむつ替えも、少しずつできるようになった。でも、2人での散歩は「30分で帰れる場所」。外出先で男性がおむつ交換をできる場所は少なかった。「公園に行って、泣かれておしめ交換となったら、こっちが震え上がる感じでした。あたふたしちゃって」 今は、朝は息子を小学校に送り出し、娘を幼稚園の送迎バスの集合場所まで連れて行く。妻は日本語の読み書きが大変なので、入園入学の手続きや準備は「俺が担当です」。 子どもが普段と違うと感じたら、とにかく話を聞く。「集団生活の悩みは、子どもにもある。成長に必要な過程だけれど、そのストレスを親がわかるだけでも違うと思う」 プロレスラーとしての体力と、育児に使う体力は「別物」という。 プロレスの興行では、試合に心身のピークをあわせ、夜9時ごろに試合が終わると、食事をして、午前4時ごろに寝ていた。しかし、子育てでは、特に子どもが小さいときは常に目が離せない。夜中も起きてミルクをあげる。成長しても、朝早くから公園で遊んだり散歩したり。「子どもにあわせて朝型生活に変えました。子育ては体力がいりますよね」■接し方に余裕 年齢を重ねてから子どもを持つことで、将来に戸惑いを感じる時期もあった。「この子が高校生になったら俺は何歳なんだ?」と、考えたこともある。もちろん、若いうちに子どもを持つ方がいいこともあると感じる。ただ、人生経験や仕事のキャリアがある分、子どもと接する時にも心の余裕が持てる。 「子どもが成長する過程って、見守る時期、自立させる時期、巣立つ時期があると知った。会社の若手やチームも一緒ですよね」「20~30代だと、親自身も社会で成長しているときだから、子どもの成長と映し鏡みたいになるんでしょう。40代は少し先にいるので冷静に見られる」 51歳の今、将来への思いも変わってきた。「40歳のときは、50歳というと一般的な定年まであと10年しかないと思っていた。でもいざ50歳になってみると、寿命を考えたらまだ先は長い。だから、色々不安になるより、俺自身が目標を持ってもっと頑張らなきゃいけないんだと思っています」■橋本真也選手、三沢光晴選手の死から決意 プロレス人生でショックだったことがある。 共に活躍した橋本真也選手が2005年、40歳で亡くなった。09年には、試合中の事故で三沢光晴選手(享年46)が死亡した。生きていることのありがたさを強く感じた。選手の命を守るためにはどうしたらよいのだろうか――。 5年ほど前、東京消防庁などで心肺蘇生やAEDの使い方を学ぶ救命講習があると知り、受講した。命を守るための知識は、プロレス界だけでなく家庭や社会全体でも必要だ。そこで、救急救命の啓発活動をする一般社団法人「ニューワールドアワーズスポーツ救命協会」を14年に立ち上げた。「助けられる命は助けたい」(大井田ひろみ)     ◇ ちょうの・まさひろ 米国シアトル生まれ。1984年、新日本プロレス入門。「闘魂三銃士」の1人として、また、nWoジャパンを設立してプロレス界に一時代を築く。2010年、フリーに。妻と立ち上げたアパレルブランド「アリストトリスト」代表取締役。妻との会話は日本語と英語が交じる。Eテレの子ども番組に出演中。     ◇〈今月のWORD〉増える40歳以上の出産 厚生労働省によると、2013年、第1子誕生時の平均年齢は母30.4歳、父32.5歳。40歳以上で産んだ母親は14年では5万878人と、1985年の約6倍に。 朝日新聞社【関連記事】 「ぐりとぐら」、由来は? 絵本作家・中川李枝子さんに聞く ある日、小学生の息子ができた! ユージさんの「家族の形」 子どもの声の「騒音」問題、志茂田景樹さんに聞く 産んでよかった 突破する強さ、安藤美姫さんに聞く 女の子のパパ、娘とお風呂はいつ卒業?
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>レスラーの蝶野さん、育児の体力は別物 40代でパパに

レスラーの蝶野さん、育児の体力は別物 40代でパパに 朝日新聞デジタル7月4日(土)9時40分配信 インタビューに答えるプロレスラーの蝶野正洋さん=瀬戸口翼撮影  プロレスラーの蝶野正洋さん(51)は、9歳の息子と5歳の娘がいる。夫婦ともに40歳を過ぎてから授かった。子育てまっただ中の50代、人生経験を積んでから親になった今の思いは。【動画】エムスタ プロレスラー・蝶野正洋さん=瀬戸口翼撮影 ドイツ人の妻マルティーナさん(50)と出会ったのは、新日本プロレスに入門し、海外修行をしていた20代のときだった。ドイツでのパーティーで酔いつぶれ、介抱してもらった縁で、1991年に結婚した。 長男が生まれたのは、結婚15年目だ。自身が42歳、妻は41歳だった。それまでも子どもは欲しかったけれど授からず、妻と始めた会社が「子どものようなもの」と思ってきた。妻が40歳になった頃、やっぱり子どもが欲しいと不妊治療を始めた。 出産に立ち会った。「産声は今でも耳に残っています。感動しましたよ」。2人で涙を流した。■「恐怖心がありましたね」 赤ちゃんを抱っこするのは、ほぼ初めて。様々な経験を重ねていても、知らない世界が待っていた。 「恐怖心がありましたね。赤ちゃんと2人だけの外出に」 家の中では、抱っこもおむつ替えも、少しずつできるようになった。でも、2人での散歩は「30分で帰れる場所」。外出先で男性がおむつ交換をできる場所は少なかった。「公園に行って、泣かれておしめ交換となったら、こっちが震え上がる感じでした。あたふたしちゃって」 今は、朝は息子を小学校に送り出し、娘を幼稚園の送迎バスの集合場所まで連れて行く。妻は日本語の読み書きが大変なので、入園入学の手続きや準備は「俺が担当です」。 子どもが普段と違うと感じたら、とにかく話を聞く。「集団生活の悩みは、子どもにもある。成長に必要な過程だけれど、そのストレスを親がわかるだけでも違うと思う」 プロレスラーとしての体力と、育児に使う体力は「別物」という。 プロレスの興行では、試合に心身のピークをあわせ、夜9時ごろに試合が終わると、食事をして、午前4時ごろに寝ていた。しかし、子育てでは、特に子どもが小さいときは常に目が離せない。夜中も起きてミルクをあげる。成長しても、朝早くから公園で遊んだり散歩したり。「子どもにあわせて朝型生活に変えました。子育ては体力がいりますよね」■接し方に余裕 年齢を重ねてから子どもを持つことで、将来に戸惑いを感じる時期もあった。「この子が高校生になったら俺は何歳なんだ?」と、考えたこともある。もちろん、若いうちに子どもを持つ方がいいこともあると感じる。ただ、人生経験や仕事のキャリアがある分、子どもと接する時にも心の余裕が持てる。 「子どもが成長する過程って、見守る時期、自立させる時期、巣立つ時期があると知った。会社の若手やチームも一緒ですよね」「20~30代だと、親自身も社会で成長しているときだから、子どもの成長と映し鏡みたいになるんでしょう。40代は少し先にいるので冷静に見られる」 51歳の今、将来への思いも変わってきた。「40歳のときは、50歳というと一般的な定年まであと10年しかないと思っていた。でもいざ50歳になってみると、寿命を考えたらまだ先は長い。だから、色々不安になるより、俺自身が目標を持ってもっと頑張らなきゃいけないんだと思っています」■橋本真也選手、三沢光晴選手の死から決意 プロレス人生でショックだったことがある。 共に活躍した橋本真也選手が2005年、40歳で亡くなった。09年には、試合中の事故で三沢光晴選手(享年46)が死亡した。生きていることのありがたさを強く感じた。選手の命を守るためにはどうしたらよいのだろうか――。 5年ほど前、東京消防庁などで心肺蘇生やAEDの使い方を学ぶ救命講習があると知り、受講した。命を守るための知識は、プロレス界だけでなく家庭や社会全体でも必要だ。そこで、救急救命の啓発活動をする一般社団法人「ニューワールドアワーズスポーツ救命協会」を14年に立ち上げた。「助けられる命は助けたい」(大井田ひろみ)     ◇ ちょうの・まさひろ 米国シアトル生まれ。1984年、新日本プロレス入門。「闘魂三銃士」の1人として、また、nWoジャパンを設立してプロレス界に一時代を築く。2010年、フリーに。妻と立ち上げたアパレルブランド「アリストトリスト」代表取締役。妻との会話は日本語と英語が交じる。Eテレの子ども番組に出演中。     ◇〈今月のWORD〉増える40歳以上の出産 厚生労働省によると、2013年、第1子誕生時の平均年齢は母30.4歳、父32.5歳。40歳以上で産んだ母親は14年では5万878人と、1985年の約6倍に。 朝日新聞社【関連記事】 「ぐりとぐら」、由来は? 絵本作家・中川李枝子さんに聞く ある日、小学生の息子ができた! ユージさんの「家族の形」 子どもの声の「騒音」問題、志茂田景樹さんに聞く 産んでよかった 突破する強さ、安藤美姫さんに聞く 女の子のパパ、娘とお風呂はいつ卒業?

>レスラーの蝶野さん、育児の体力は別物 40代でパパに

レスラーの蝶野さん、育児の体力は別物 40代でパパに 朝日新聞デジタル7月4日(土)9時40分配信 インタビューに答えるプロレスラーの蝶野正洋さん=瀬戸口翼撮影  プロレスラーの蝶野正洋さん(51)は、9歳の息子と5歳の娘がいる。夫婦ともに40歳を過ぎてから授かった。子育てまっただ中の50代、人生経験を積んでから親になった今の思いは。【動画】エムスタ プロレスラー・蝶野正洋さん=瀬戸口翼撮影 ドイツ人の妻マルティーナさん(50)と出会ったのは、新日本プロレスに入門し、海外修行をしていた20代のときだった。ドイツでのパーティーで酔いつぶれ、介抱してもらった縁で、1991年に結婚した。 長男が生まれたのは、結婚15年目だ。自身が42歳、妻は41歳だった。それまでも子どもは欲しかったけれど授からず、妻と始めた会社が「子どものようなもの」と思ってきた。妻が40歳になった頃、やっぱり子どもが欲しいと不妊治療を始めた。 出産に立ち会った。「産声は今でも耳に残っています。感動しましたよ」。2人で涙を流した。■「恐怖心がありましたね」 赤ちゃんを抱っこするのは、ほぼ初めて。様々な経験を重ねていても、知らない世界が待っていた。 「恐怖心がありましたね。赤ちゃんと2人だけの外出に」 家の中では、抱っこもおむつ替えも、少しずつできるようになった。でも、2人での散歩は「30分で帰れる場所」。外出先で男性がおむつ交換をできる場所は少なかった。「公園に行って、泣かれておしめ交換となったら、こっちが震え上がる感じでした。あたふたしちゃって」 今は、朝は息子を小学校に送り出し、娘を幼稚園の送迎バスの集合場所まで連れて行く。妻は日本語の読み書きが大変なので、入園入学の手続きや準備は「俺が担当です」。 子どもが普段と違うと感じたら、とにかく話を聞く。「集団生活の悩みは、子どもにもある。成長に必要な過程だけれど、そのストレスを親がわかるだけでも違うと思う」 プロレスラーとしての体力と、育児に使う体力は「別物」という。 プロレスの興行では、試合に心身のピークをあわせ、夜9時ごろに試合が終わると、食事をして、午前4時ごろに寝ていた。しかし、子育てでは、特に子どもが小さいときは常に目が離せない。夜中も起きてミルクをあげる。成長しても、朝早くから公園で遊んだり散歩したり。「子どもにあわせて朝型生活に変えました。子育ては体力がいりますよね」■接し方に余裕 年齢を重ねてから子どもを持つことで、将来に戸惑いを感じる時期もあった。「この子が高校生になったら俺は何歳なんだ?」と、考えたこともある。もちろん、若いうちに子どもを持つ方がいいこともあると感じる。ただ、人生経験や仕事のキャリアがある分、子どもと接する時にも心の余裕が持てる。 「子どもが成長する過程って、見守る時期、自立させる時期、巣立つ時期があると知った。会社の若手やチームも一緒ですよね」「20~30代だと、親自身も社会で成長しているときだから、子どもの成長と映し鏡みたいになるんでしょう。40代は少し先にいるので冷静に見られる」 51歳の今、将来への思いも変わってきた。「40歳のときは、50歳というと一般的な定年まであと10年しかないと思っていた。でもいざ50歳になってみると、寿命を考えたらまだ先は長い。だから、色々不安になるより、俺自身が目標を持ってもっと頑張らなきゃいけないんだと思っています」■橋本真也選手、三沢光晴選手の死から決意 プロレス人生でショックだったことがある。 共に活躍した橋本真也選手が2005年、40歳で亡くなった。09年には、試合中の事故で三沢光晴選手(享年46)が死亡した。生きていることのありがたさを強く感じた。選手の命を守るためにはどうしたらよいのだろうか――。 5年ほど前、東京消防庁などで心肺蘇生やAEDの使い方を学ぶ救命講習があると知り、受講した。命を守るための知識は、プロレス界だけでなく家庭や社会全体でも必要だ。そこで、救急救命の啓発活動をする一般社団法人「ニューワールドアワーズスポーツ救命協会」を14年に立ち上げた。「助けられる命は助けたい」(大井田ひろみ)     ◇ ちょうの・まさひろ 米国シアトル生まれ。1984年、新日本プロレス入門。「闘魂三銃士」の1人として、また、nWoジャパンを設立してプロレス界に一時代を築く。2010年、フリーに。妻と立ち上げたアパレルブランド「アリストトリスト」代表取締役。妻との会話は日本語と英語が交じる。Eテレの子ども番組に出演中。     ◇〈今月のWORD〉増える40歳以上の出産 厚生労働省によると、2013年、第1子誕生時の平均年齢は母30.4歳、父32.5歳。40歳以上で産んだ母親は14年では5万878人と、1985年の約6倍に。 朝日新聞社【関連記事】 「ぐりとぐら」、由来は? 絵本作家・中川李枝子さんに聞く ある日、小学生の息子ができた! ユージさんの「家族の形」 子どもの声の「騒音」問題、志茂田景樹さんに聞く 産んでよかった 突破する強さ、安藤美姫さんに聞く 女の子のパパ、娘とお風呂はいつ卒業?

ホストプロの手嶋多一が今季初優勝! 13年ぶりの全英オープン出場へ

~全英への道~ミズノオープン(5月28日~31日、岡山県・JFE瀬戸内海GC、7415ヤード、パー72)
 
  大会最終日。首位タイからスタートした手嶋多一が通算15アンダーで今季初優勝、ツアー通算8勝目を挙げた。2位には通算13アンダーのスコット・ストレンジ(オーストラリア)。3位タイに高山忠洋と富村真治が入り、この4人が全英オープンの出場権を獲得した。
 
  首位タイでスタートした手嶋多一は、4番までパーセーブすると5番、6番の連続バーディで流れに乗り、前半で3つ伸ばして通算15アンダーの単独首位に。バックナインに入っても10番、11番と連続バーディを奪って後続との差を広げ、13番、16番をボギーとしたものの、5バーディ、2ボギーの69をマーク。通算15アンダーで2位に2打差をつけて今季初優勝。昨年の日本プロゴルフ選手権大会 日清カップヌードル杯以来のツアー通算8勝目を挙げた。ミズノ契約のホストプロとしては1986年の中嶋常幸以来29年ぶりの勝利で、自身13年ぶりとなる3度目の全英オープンの切符を手にした。
 
  手嶋と並んで首位タイから初優勝を目指したスコット・ストレンジは、5番のバーディで前半を一つ伸ばし、後半も10番でバーディが先行したものの、12番で痛恨のダブルボギー。残り6ホールで首位の手嶋との5打差を追いつくことはできず、3バーディ、1ダブルボギーの71、通算13アンダーの2位に終わった。
 
  11位タイで出た富村真治が6バーディ、1ボギーの67をマークして、通算11アンダーの3位タイに入り、同じく通算11アンダーで並んだ高山忠洋とともに全英オープン出場権を獲得した。
 
  2日目に首位に立った横田真一は通算5アンダーで、小田孔明、谷口徹、谷原秀人らと並んで14位タイ。ディフェンディングチャンピオンの張 棟圭(韓国)は通算4アンダーで、宮里聖志らと並んで23位タイに終わった。
 
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松本山雅が敵地の浦和戦で経験した“理想のアウェイ感”

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 松本山雅が敵地の浦和戦で経験した“理想のアウェイ感”

 

 浦和のホーム埼スタで健闘した松本山雅 [写真]=Getty Images

 「松本はもともとサッカー専用スタジアムがあって、(地域住民の)チームに対する愛情もあった。そういう環境の中で、僕は仕事をやりやすい。現場で一生懸命やっていることがサッカー文化としてついてきたんだと思います」
 
  0-1で浦和レッズに敗れた後、「松本に根付いているサッカー文化」について問われた時のことだ。記者会見で松本山雅FCの反町康治監督は、そんな話をした。
 
  J1リーグ第4節。松本は敵地埼玉スタジアムのピッチに立った。
 
 「アルウィンも素晴らしいですが、埼スタも一人ひとりが声を出して、それが響いてくるような感じが“浦和のホーム”なんだなって感じました」(GK村山智彦)
 
 「埼スタはアウェイ感がすごくあった。そういうスタジアムで試合ができたことはうれしい」(MF岩上祐三)
 
  キックオフ直前の選手たちは少し緊張しているようにも見えた。3万人を超す大観衆と、スタジアムのいたるところから聞こえる「WE ARE REDS」の歌声。浦和が作りだすJリーグ屈指の空気感は、重く強く相手に届く。これまでに経験したことのないような雰囲気は、まさにアウェイだったはずだ。
 
  だが、いつもどおりの風景もあった。この日も多くの緑色で埋まっていた松本のゴール裏。そして、メインスタンド上層部。選手入場時には、スタンドに立ちタオルマフラーをたくさんのサポーターが掲げていた。
 
 「今日も一つになって、追い求めろ俺らと信州・松本のFOOTBALLを 行け、山雅」
 
  真っ赤なスタジアムの中で聞こえた「松本山雅コール」は、どれほど選手たちに力を与え、戦う勇気に変えてきたのだろう。0-0で迎えた試合終盤。その声は一層大きくなっていった。選手たちの足が止まらないように、歌声も鳴り止むことはなかった。
 
  85分に浦和のDF森脇良太の素晴らしいゴールが決まった後も、敗戦が決まった後も「まだまだ」と言わんばかりの大声援は聞こえていた。だからこそ、選手たち、監督は言葉を続けるのだ。
 
 「今日もたくさんのサポーターが来てくれた。こういう素晴らしいスタジアムで試合ができたことは幸せなことだけど、でも勝ち点3を取れなかったことが悔しい。この敗戦を次に生かさないといけない」(DF田中隼磨)
 
 「これ以上は求めることができないくらいに、最後の笛がなる瞬間まで選手たちはよくやった。こういうスタジアムでのプレー経験を持つ選手も少なく、浦和のリズムの中でもよく抑えたと思う。下を向く必要はないし気持ちを切り替えてホームでの戦いに備えたい」(反町監督)
 
  チームとサポーターがともに歩み“松本”のFOOTBALLは育まれてきた。それが文化として根付いている証が、ゴール裏のあの光景であり、アルウィンの景色なのだ。
 
  試合後、悔しさににじむ表情のまま、選手と監督はスタンドに頭を下げた。送られた拍手はやっぱり、最後の選手の姿が見えなくなるまで続いていた。悔しさはスタンドに届き、声援はピッチに届いていた。
 
  だから――。松本山雅が松本の象徴であり続けるように、彼らは変わらずに歌い続けている。その歌声を誇りに選手たちは戦っている。一緒に戦う仲間にブーイングはいらない。そんな思いを感じる90分が、ここにはあるのだ。
 
 「現状に満足せず、どんどん前に突き進みたい」と、冒頭の質問の最後に反町監督はそう口にした。松本の次節は、ホーム・アルウィン。次こそは松本の地にJ1初勝利を。そして鳴り止まない歓喜の歌声を。松本に根付く“文化”に新しい1ページが開く瞬間が、もうすぐやってくる。
 
 

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