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[インタビュー]没後10年、伝説のフォークシンガー・高田渡のトリビュートを息子・漣が発表
近年の細野晴臣は音楽を「考古学」として捉え、地層を掘り起こすことによる発見を若い人に伝えることで、意欲的に音楽文化を継承しようとしている。そして、日本のフォークという地層を掘り起こしたとするならば、絶対に避けて通れないのが高田渡の存在だ。生涯、酒と詩を愛した吟遊詩人として知られ、2004年の映画『タカダワタル的』によって、彼の生き方の虜になった人もきっと多いはず。北海道での急逝から今年で早10年。初のオールタイムベスト『イキテル・ソング~オールタイム・ベスト~』と、息子の高田漣によるトリビュート盤『コーヒーブルース~高田渡を歌う~』は、いわば音楽の歴史をたどる旅であり、親子の歴史をたどる旅でもある。
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高田漣といえば、細野晴臣からくるり、星野源に至るさまざまなミュージシャンのバックを務め、ペダルスティールをはじめとしたマルチな弦楽器奏者として知られている。また、ソロアーティストとしてもインストゥルメンタルを軸に作品を発表してきたが、東日本大震災をきっかけに日本語の歌へと傾倒し、今回遂に人間・高田渡と正面から向き合ったのである。この日の取材では、「音楽家」としての、そして「父」としての高田渡について語ってもらうと同時に、自身のこれまでの歩みについてもじっくりと振り返ってもらった。高田漣の饒舌な語り口からは、やはり父親の姿を連想せずにはいられなかった。
■震災直後、アコースティックギターを弾いて歌うという父のシンプルなスタイルこそが、一番ダイレクトに伝わることにようやく気づいたんです。
―漣さんが高田渡さんの音楽と真剣に向き合い始めたのは、東日本大震災のチャリティーで、“鉱夫の祈り”を歌ったのがきっかけだったそうですね。
高田:それまでは正直、自分の音楽活動において歌に対するウェイトはすごく低くて、インストゥルメンタルやアレンジメントのほうにベクトルが向いていたんです。でも、震災直後にライブで電気が使えない状態になったときに、アコースティックギターを弾いて歌うという、父のシンプルなスタイルこそが、一番ダイレクトに伝わることにようやく気づいたんです。
―チャリティーで“鉱夫の祈り”を選曲したのは、何か理由があったのでしょうか?
高田:震災直後に思ったのは、「今歌う意味がある言葉を歌いたい」ということでした。そのときのムードと“鉱夫の祈り”の歌詞が非常に合致していて。それからいろいろなイベントで自分がギターを弾いて歌うことが増えて、父の世界に近づいていきました。すると、子供の頃の経験が蘇ってきて、日本語で歌うことにどんどん興味が湧いてきたんです。
―逆に言うと、それまでインストをメインにしていて、ルーツミュージックに則した楽器を使いながらも、エフェクトをかけたりしていたのは、父に対するある種の反発があったということなのでしょうか?
高田:そう思う人も多かったと思うんですけど、意図して反発したことはありません。父とは17歳のときからずっと一緒に演奏していたし、僕がファーストアルバムを出したときも父が帯を書いてくれたり、ずっと応援してくれてましたし。エフェクトを使っていたのは、自分の使ってる楽器を時代にフィットさせる方法論としての意味合いが強かったですね。
■レコードが消えてCDに変わったことで、古い音楽と新しい音楽が並列に流れてくる時代になった。僕の音楽性はそこで形作られた部分が大きいです。
―漣さんはYMOからも大きな影響を受けていると思いますが、それを発展させて、自分なりの方法論で音を鳴らしていたと。
高田:僕にとってのYMOって、音楽家として以上に「おらが村のスター」という感じだったんですよね。というのも、細野(晴臣)さんは昔、父のプロデューサーでしたし、藝大にいた頃の教授(坂本龍一)は父の友人のバックで演奏していました。それに、父が晩年に作品をリリースしていたレーベルのオーナーが(高橋)幸宏さんのお兄さんでしたし……。そんな彼らが、ずっと売れずじまいだったフォーク界隈から初めてマスに出ていった。YMOってお笑い番組の『THE MANZAI』に「トリオ・ザ・テクノ」として出たことがあるんですよ(笑)。だから僕にとってはある種のアイドルというか、芸能人だったんです。
―世代的にも、いわゆる「YMOチルドレン」の方々よりちょっと下ですもんね。
高田:そうなんです。ホントにすごかったときのYMOをリアルタイムで体験できたのは、まりん(砂原良徳)さんやテイ(・トウワ)さん、高野(寛)さんみたいに、ちょっと年上の世代ですね。
―だからこそ、漣さんはペダルスティールなどを使いながら、自分なりの道を追求してきたと。
高田:そういうことです。あと最近つくづく思うのは、僕は1973年生まれなんですけど、高校から大学くらいで一気にレコードが消えて、CDにメディアが変わったんです。その後に何が起きるかっていうと、いわゆる再発ブームが始まって、古い音楽と新しい音楽が並列に流れてくる時代に急に変わっていきました。例えば、プリンスの新譜と、ボブ・ディランの1960年代の作品が、自分の中で同列になったんです。今のYouTubeの文化もそうですが、僕らの世代にも同じようなミクスチャーが起こって、急に地平が広がっちゃった感じなんですよ。同世代のくるりの岸田(繁)くんとかもそうだと思うんですけど、僕の今の音楽性も、そこで形作られた部分が大きいんです。
■まあ、しょうもない親父だったことは確かなんですよ。ただ、愛されてる人だったんだなとはつくづく思います。
―一方で、父親としての高田渡さんをどのように見ていらっしゃったのでしょうか?
高田:そうですね……まあ、しょうもない親父だったことは確かなんですよ。親父の古くからの友人たちも口を揃えてそう言うと思う。ただ、愛されてる人だったんだなとはつくづく思います。僕と父の関係でいうと、小学校の頃に両親が離婚したので、四六時中、高田渡と一緒にいなかったことが良かったのかな。結局近所に住んでいたので、頻繁に行き来はしてましたけど。
―ずっと一緒にいたら、音楽の道を選ばなかったかもしれないですね。
高田:そうなんですよ。それに自由業にも否定的だったと思います。実は僕、大学では政治学を勉強して、新聞記者になりたかったんですよ。昔からものを書くのが好きだったのと、キチッと会社勤めをしたいという小さな反発があったんでしょうね。ただ、気がついたら……。
―自分も父親と同じ道を進んでいた。
高田:これも縁かもしれないですね。当時はまだ音楽業界も元気が良くて、いっぱい仕事があったから、大学時代は調子に乗って音楽ばっかりやっていて、気づいたら就職活動もせずに、そのまま今に至るっていう(笑)。よく勘違いされるんですけど、僕は「音楽家になるんだ!」って思っていたわけではないんですよ。
■植物が栄養や水を大量に与えられたら育つかというと、必ずしもそうとは限らないじゃないですか? 音楽も同じだと思います。
―クラムボンのミトさんも同世代かと思うんですけど、先日取材した際に同じようなことをおっしゃっていました。当時は今より余裕がある時代だったから、専門学校に行ったのは社会に出るのを遅らせるためで、「音楽を仕事にする」なんて考えてもいなかったって。
高田:僕らの世代はそういうちょっと受動的な音楽家が多いと思う(笑)。細野さんや教授、大瀧詠一さん、うちの父親みたいな世代の人たちは、「何かを生みだそう、何かを変えよう」という、確固たる原動力があって動いていて、そこは残念ながら僕らの世代と違うところですね。我々はさっき話したように、すべてが並列にある状態からのスタートだから。自分たちですべての種を見つけ出して、血肉化していった人たちには明らかに敵わない。それはいつも思います。
―ただ、くるりもクラムボンも、もちろん漣さんも、最初から並列だからこそのオリジナリティーを作り出していった世代だと思うんですよね。
高田:もちろん、それはそうだと思います。ただ、植物が栄養や水を大量に与えられたら育つかというと、そうとは限らないじゃないですか? 音楽も同じで、たくさんのものが身の周りにあるということが、必ずしも音楽性を育てるとは思えないんです。むしろ、限られた情報や機材しかなかったほうが、できることがある気がする。今回のトリビュート盤をアナログで録ったのは、自分を追い込むことによってしか得られないものがあるんじゃないかと思ったんです。
■数年間、細野晴臣さんと父が一緒にアルバムを作れるよう画策していて、これからようやく作れそうだというタイミングで父は亡くなったんです。
―高田渡さんも「便利」という言葉が好きじゃなかったそうですね。さきほどの漣さんのお話はそこにつながるかと思います。
高田:そうですね。僕は同世代の中では音楽業界に早く入ることができたので、当時はまだテープでレコーディングをしていたのですが、スタジオに入ったときの「緊迫感」が今と全然違ったんです。それからどんどん便利な世界になっていって、気づけばそこに埋もれてしまっていたというか。だから、今回アナログでやってみて、いろんな大事なことを思い出したんですよね。若い世代の人が聴くと、逆に新鮮なんじゃないかと思うんですけど。
―デジタルでは再現できない、その人の歌であり、言葉そのものの強さが改めてクローズアップされるとも言えそうですね。
高田:あと、僕が細野さんと一緒にやった狭山のライブ(『ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル』)(2005年)に、細野さんはうちの親父を呼ぼうとしてたんです。その最終的なお誘いの電話が僕にかかってきた日に、父が死んだんです。実を言うと、その前から数年間、細野さんと父が一緒にアルバムを作れるよう画策していて、これからようやく作れそうだというタイミングで父は亡くなりました。図らずも、僕はそれから10年間細野さんと一緒に仕事をして、細野さんの録音のノウハウをずっと見てきたので、今回の録音はそこで培ってきたものがすごく影響してると思います。
■それまでたくさんの機材を持ってやっていたのが、急にバカらしく思えちゃったんですよ。ギター1本で、その何十倍も伝えられることがあるんですよね。
―「便利」が好きじゃなかったという言葉は、渡さんの生き方そのものにも反映されていたと思いますが、「生き方」という点において、父からどんな影響を受けてると思われますか?
高田:僕、古臭いものが好きなんですよね。何か新しいものを知ったときは、そのルーツをすごく知りたくなるんです。音楽以外の趣味ってほとんどないんですけど、唯一『名探偵ポワロ』と『シャーロック・ホームズ』が好きで、それは昔のロンドンの街並みを見るのが楽しいから。古い東京の写真とかもすごく好きだし、そこは父とも何かしら似てるかもしれない。楽器もビンテージばっかり買っちゃうし、車も古い車だし、靴もなるべく汚したい。唯一父と違うところがあるとすれば、ボロアパートには住みたくない(笑)。
―古いものを大事にするというのは、逆に言えば、ときに新しいものや便利なものを切り捨てることになるわけですよね。それでも高田渡さんにとっては「身軽である」ことが大事だったように思うんです。
高田:そう、それはすごくよく高田渡を表してる言葉だと思います。だって、ギター1本、リュック1つで日本全国どこにでも行けた人ですから。僕が震災後に気づいたことの1つが、そのフットワークなんです。それまではたくさんの機材を持ってやっていたのが、急にバカらしく思えちゃったんですよ。そんなことしなくても、ギター1本持って行けば、その何十倍も伝えられることがある。そう思ったら、急に今までやってたことと真逆な世界に移ってしまったんです。
■アルバムを作りながら、父ともう一度会話をしてるような感じがしましたね。父の歌を僕がアレンジしたらこうなるよって。
―2013年に出た『アンサンブル』も、そういう傾向が表れていましたね。
高田:ぶっちゃけて言うと、『アンサンブル』を作っている段階で、今回のアルバムのアイデアが漠然とありました。考えてみれば、震災後に“鉱夫の祈り”を歌った時点から、少しずつステージで父の歌を歌うようになって、ここに向かってきてたんですよね。
―極端に言えば、『アンサンブル』は渡さんの歌を歌うための予行演習だったと。
高田:まさにそうです。唯一違うのは、『アンサンブル』はいかにJ-POPのフォーマットでやれるかを考えて作ったんですけど、今回そこは一切関係なくて、誰にも聴かれなくていいぐらいのつもりでした。ただ、父の作品を自分が形にしないといけないんじゃないかというのは、震災後からずっと思ってたことだったんですよね。
―非常にパーソナルな意味合いの強い作品だと。
高田:そうですね。なんとなく、アルバムを作りながら、父ともう一度会話をしてるような感じがしましたね。父の歌を僕がアレンジしたらこうなるよって。
―アルバムの選曲に関しては、どのような意図があったのでしょうか?
高田:トリビュートに関しては、普段父がよくライブでやっていた曲を入れたので、晩年の高田渡のライブを見てた人には、懐かしいセットリストだと思います。ベスト盤のほうは歴史的な意味もあるので、基本的には時系列に沿っています。1曲目と2曲目は逆ですけど、聴いていくことで高田渡の歴史を追えるし、日本の音楽史の中で、録音物の音がどう変化してきたかもわかると思いますね。あとは少しカラフルな音を意識したというか、高田渡というとどうしても言葉に話がいきがちですけど、音楽的にもいろんなことをやってたんだよというのを少し強調するような選曲にしました。
■人間って、どんなに文明が進んでも、相変わらず愚かで、相変わらず可愛らしいわけですよね。その両面が父の歌にはあって、残念ながら今もそのまんまなんです。
―最初に“鉱夫の祈り”を歌ったのは、今、歌う意味のある曲だったからというお話がありましたが、今回の選曲も、今の時代にふさわしい曲が並んでいるように思いました。
高田:そうですね。逆に、政治的なニュアンスを深く取られ過ぎそうなものは、あえて入れなかったのもあります。父は“自衛隊に入ろう”でデビューしたけど、ベルウッドレコードに移籍した『ごあいさつ』以降は、あえて政治的な部分をオブラートに包んで、歌の目線をより普段の生活に移し、普通の人たちが何を見て、何を聴いて、どう生きてるか? というほうにシフトしていったので、そういうものを選びました。
―まさにそこがポイントで、今歌われるべきは「生活者の歌」だと思うんです。政治も経済も、現代はいろんなレベルで生活が緊迫していることは間違いないと思うんですね。そういう中で、辛い日常を忘れさせるエスケーピズムの効果も音楽の役目だとは思うんですけど、こういう時代だからこそ、もっと生活に寄り添って、たくましく生きるための音楽が必要だと思う。高田渡さんはそういう目線を持っていた方だと思うし、今回のアルバムもそこを反映しているような気がして。
高田:おっしゃる通りですね。今回トリビュートだけじゃなくベストも同時に出すべきだと思ったのは、近年、高田渡に興味を持つ若い人の声を生で聞くようになって、時代に求められているような感じがしたというのもあって。当時から聴いていた方はもちろん、今の若い世代の子が聴いても何か共感するメッセージがあるのはすごく大事なことだから、なるべくその部分を打ち出したかったっていうのはあります。父の歌は、明治時代の演歌(現在の演歌ではなく演説の歌)だったり、山之口貘や金子光晴の詩を使ったもので、“自衛隊に入ろう”にしても、“アンドーラ”っていうマルビナ・レイノルズ(アメリカのフォーク、ブルースのシンガーソングライター)の原曲があって、歌詞の内容もほぼ同じなんですよ。つまり、父が作った時点で、それは過去のものなんです。高田渡っていう人はデビューした時点で、すでに古臭い人だったんですよね(笑)。
―言い方を変えれば、高田渡さんが歌にしていた題材というのは、はじめから普遍性のあるものばかりで、だからこそ今も昔も変わらずに響くということですよね。
高田:人間って、どんなに文明が進んでも、相変わらず愚かで、相変わらず可愛らしいわけですよね。その両面が父の歌にはあって、残念ながら今もそのまんまなんです。だから、“自衛隊に入ろう”や“鮪に鰯”が今でも通じてしまうし、片や“夕暮れ”とか“ブラザー軒”みたいな世界観も通じる。身に着けてるものや、住まいや、外枠は変わっても、人間って結局変わらないんだなって思いますね。
■父のように自分の一生を10代のうちに決めるのも1つの生き方だと思います。でも、僕は父のようには生きられないですから。
―今回こうして高田渡さんの歌を形にしたことで、今後漣さんがどんな歌を歌っていくのかも非常に気になります。
高田:去年『グーグーだって猫である』というドラマの挿入歌(“パレード”)をUAに歌ってもらったんですけど、あれもポップス風に着飾ってはいても、根本はフォークソングなんです。やっぱり、そこが自分の中でどんどん大きくなっていて、サウンドはそのときどきで変わると思うけど、言葉はよりわかりやすくなっていくような気がしますね。
―“パレード”は何が題材になった曲なんですか?
高田:実はあの曲は、国会前のデモを見て感じたことを、気がついたら歌にしていたんです。でも僕、その曲のことをすっかり忘れていて、ドラマの話があったときに、「前から思ってたんですけど、この曲すごくいいと思うんです」とマネージャーに言われて、それから自分でコピーし直したんですけど(笑)。
―個人の体験をギター1本で歌にするというのは、まさにフォークシンガーですね。
高田:ただ、直接的なアジテーションよりは、考える余白があるものにしたいですね。その人の言いたいことが書いてあるだけだと、それ以上のことは思わないじゃないですか? 聴いた人それぞれに答えをゆだねるようなものがいいと思うんですけど……まあ、こんなこと言って、どうでもいいこと歌ってるかもしれないけど(笑)。
―そこは身軽に、ですかね(笑)。
高田:実は自分の人生を振り返ってみると、「何かになろう」とか、「自分の人生をこうしよう」と思ったことって、一度もないんですよ。でも、父は今度出る日記(『マイ・フレンド―高田渡青春日記1966-1969』)の中で、17歳の時点で「高田渡っていうシンガーはこうでなくちゃいけない」って決意してるんです。日本人として、日本語の表現を突き進むんだって。ぶれてないんです。それに比べて僕なんて、究極のぶれ球ですよ。蹴った本人ですらどうなるかわからない(笑)。結局自分のことって、わかってるようで何もわかってないんですよね。だって僕、最初はこの業界の裏方で頑張っていこうと思ってたのに、気づけば「ペダルスティール奏者」になり、「マルチ弦楽器奏者」になり、「シンガーソングライター」になり、今や何て言っていいかわからないから、「音楽家」っていう大きな括りになってますからね(笑)。
―(笑)。それは自分で選んできたものではないと。
高田:いろんな人たちの助言とか、ファンの人たちの望み、そういうものに導かれたんですよね。震災後も、お客さんに「漣さんに“鉱夫の祈り”や“鮪に鰯”を歌ってほしいんです」と言われて、そこから自分が変わっていきましたから。だから、いつでもどこにでも行けるように身軽でいたいというか、実は自分の人生をどうこうしたいとは思ってないんですよね。
―ただ、自分のポジションを固めないっていう……。
高田:その意志は固いです(笑)。だって、そのほうが楽しいじゃないですか? もちろん、父のように自分の一生を10代のうちに決めるのも1つの生き方だと思います。でも、「こっちのほうが面白い」っていうのも1つの人生だと思うし、僕は父のようには生きられないですから。「漣くんにはこういうことをやってほしい」と誰かが思うことを、これからもやっていたいと思いますね。