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ちょっとシュールに「猫街鉄道放浪記」 (17) 駅が戦争の悲惨さを語る

ちょっとシュールに「猫街鉄道放浪記」 (17) 駅が戦争の悲惨さを語る 

 池袋にいた黒猫

 今回は近場のお話。横浜生まれの私にとって、新宿や池袋は遠かった。というのは、昔は横須賀線も川崎を経由していたし、新宿に行くには東急東横線で渋谷に出て、山手線で行かなければならなかったからだ。現在では、貨物線を利用した湘南新宿ラインができたおかげで、横浜から新宿、池袋も近くなった。新宿、池袋に触れつつ、横浜にある廃駅のお話もしていこう。

 それにしても池袋駅は鉄ちゃんにとって興味深い。池袋北口を出て線路沿いを歩いて、跨線橋を登る。そこから、山手線がいったん他の線路をくぐり大塚方面に右折していく様、逆に上っていく埼京線や、池袋に到着する東武線の模様など、ずっと見ていても飽きない。そして、池袋北口はビルが歯抜け状態で建っている街なかを、気難しそうな黒猫が歩いていたりもする。

 池袋の込み入った線路群。山手線の電車が線路の下をくぐっていく

 池袋と新宿は、湘南新宿ラインでひと駅。新宿は西へ広がる駅である。夜11時すぎ、5番線から出る「ムーンライトえちご」を見るといい。廃止前の急行「アルプス」を思い起こさせるほど、週末や夏休みは賑わう。485系の車両も、昔の信越線の「あさま」のようで懐かしい。出発前には人が集まって記念撮影しているのもなんだか嬉しくなる。

 新宿駅発車間近の快速「ムーンライトえちご」

 湘南新宿ラインに乗っていくと、大崎駅と西大井駅との間は大きく蛇行している。そのため、東京総合車両センターの脇を通る形になり、昔の車両を見ることができる。チョコレート色の電車などが、ちょこっといたりする。

 湘南新宿ラインで、新宿・池袋と横浜が近くなった

横浜駅近くのあかずの踏切はなくなったが、猫がいた

 今度は横浜駅の話。西口を出て左折してどんどん歩く。5番街を通り、東急ハンズの横を通っていくと、岡野町の交差点に行き着く。そして再度左折し、陸橋の平沼橋を上らずに右脇の路地を歩いていくと、相模鉄道(以下、相鉄線)、東海道線の線路にたどり着く。

 ここには2004年10月まで、「横浜1号踏切」と呼ばれるあかずの踏切があった。何しろ相鉄線、東海道線、横須賀線をまたぐのだから、ひどい時には1時間のうち59分ぐらい遮断機が降りているほどだった。踏切フェチの私は、ここで電車を見ながらボーッと時間をつぶすこともよくあった。

 在りし日の横浜1号踏切。開いている時間が短いので、渡る人の顔つきも忙しい(撮影: 2002年頃)

 奥にうつっているのが相鉄線平沼橋駅(撮影: 2002年頃)

動画

遮断機が上がった途端に警報がなって、遮断機が下がる。これが本当のあかずの踏切(撮影: 2002年頃)

 今度はエレベーターで平沼橋の上にあがり、線路を渡ってから再び下りると、平沼商店街が広がる。踏切はなくなったが、踏切注意の交通標識がまだ残る。踏切近くでは猫がのんびりと歩いていたりと、横浜駅の喧噪が嘘のようなのんびりとした光景である。

 踏切はなくなったけど、踏切注意の標識は残る。平沼の猫は何も気にせずに、のんびりと歩く

京浜急行電鉄旧平沼駅の廃墟を見て終戦をおもう

 平沼商店街を線路を反対方向に歩いていくと、京浜急行電鉄(以下、京急)の高架と交わる。そこで右手のほうを見ると、コンクリートの建物が。これが旧京急平沼駅の残骸である。太平洋戦争真っ只中の1943年、駅の統廃合がなされ、この駅も開業からわずか12年で休業(翌1944年には廃止)に追い込まれている。

 実はこの駅、1945年5月29日の横浜大空襲で焼け落ちて駅のドームも鉄骨だけになってしまった。戦後、横浜市長が京浜急行に働きかけ、戦争の悲惨さを語る建物として保存されたといわれている。子どものころ読んだ『暮らしの手帖』も紹介されていた。この鉄骨は50年以上にもわたって保存されており、平沼商店街を通るたびに私はじーっとこの駅を見ていた記憶がある。

 京浜急行電鉄旧平沼駅

  旧平沼駅の崩れ落ちそうな階段と、鉄骨の切った跡がわかる

 焼け落ちた鉄骨が取り除かれたのは1999年のこと。老朽化が激しかったためだろう。しかし、大きく報道されたこともなく、話題にもならなかったようだ。このころから時代の潮目が変わりはじめたのかもしれない。『鉄道廃線跡を歩く 2』(宮脇俊三著・日本交通公社)の56ページには鉄骨があった時代の京急平沼駅の様子がカラー写真で紹介されている。現在、鉄骨はなくなったものの、廃駅はまだある。横浜に行ったらぜひ京急に乗って、見てほしい。

動画

かぶりついて見ると、廃駅の模様がわかる(撮影: 2007年)

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知らないと損する本格的アメリカ旅行術 (41) ニューヨークの交通事情珍体験

知らないと損する本格的アメリカ旅行術 (41) ニューヨークの交通事情珍体験 

 前回のニューヨークアート巡り、いかがだったでしょうか? 今回は、マンハッタンの交通事情についてお届けします。アメリカは、なんといっても車社会。私たちが住んでいたロサンゼルスでは、車がないとどこにも行けませんでした。しかし、ニューヨークは、地下鉄網が発達しており、マンハッタンの中はどこでも地下鉄(メトロ)で行くことができます。東京と同じですね。実際にレンタカーを借りてマンハッタンを運転してみましたが、これはこれは結構大変でした。理由は後でご説明します。また、自由の女神の正面から見ることのできる”タダ”のスタテン島フェリーにも乗船してきました。それでは、実体験に基づくマンハッタンの交通事情についてお話します。

国が違えば地下鉄も違う?

 私たちは8日間の滞在だったので、初日に1週間地下鉄とメトロバスに乗り放題のメトロカードを購入。メトロカードは、1日($7.50)、7日($25.00)、14日($47.00)、30日($81.00)。1回$2.00なので、1週間で13回以上乗るのならこれの方がお得というわけだ。

 NY滞在中のある夜、私たちは滞在先のホテルに帰ろうと、年越しカウントダウン映像の中継で有名なタイムズスクエアから、駅に入った。タイムズスクエアの駅は広く、色々な路線が交差している。広い駅の中を目的の路線まで歩いていると、マイク片手に歌っている大柄な女性を発見。日本でも駅前でライブをしている人をよく見かけるが、ここは駅の構内。さらに50人以上もの人が、その歌手を取り囲み、一緒に歌っている。それに気分を良くしたのか、最初は座って歌っていた歌手が立ち上がり、ノリノリで歌い始めた。家路に着くニューヨーカーたちや、観光客がどんどん集まり、彼女の声も、観客の声もどんどん大きくなる。こんなんでいいの! と驚きながら、すごいパワーに圧倒された。

 またある朝、朝8時台に電車に乗った私たち。日本だとラッシュの時間だ。日本の場合、比較的先頭や最後尾の車両が空いているので、その感覚で、ホームの一番端で電車を待った。しかし、ホームに入って来た電車は、私たちのはるか手前(30mぐらい)で停車した。えっ? どういうこと? と驚く私たち。東京の場合、ホームに乗車場所が示されている。でも、ニューヨークのホームにはそれがなかった。そしてホームは電車の長さよりはるかに長かった。きっと、「電車はホームに止まるのだから、正確な位置が決まっていなくてもいいじゃん」ということではないかと思う。とにかく電車は30m先に停車していて、これにはもう乗れないとあきらめた私たち。すると、運転手さんが、早く来いと手招きをしている。あっ、待っててくれるのね。私たちが何とか追いついて乗り込むと、運転手さんは出発した。

 別の朝、また電車の中で面白いことに遭遇した。車両の中に、ギター片手にミュージシャンが2人やってきて、生ライブを始めたのだ。これもまた乗客もノリノリで一緒に歌いだした。1曲目が終わると、「リクエストは?」と乗客に質問。1人が、何かのタイトルを答え、またまた乗客で大合唱。私たちは面白くて写真をパチパチ。最後に1人が、帽子を持ってチップを集めに回る。私たちも写真を撮ったので1ドルを入れた。朝からエキサイティングな体験だった。

 電車の中のライブ

 駅構内でも、歌ってます

 また地下鉄の安全性について実体験を踏まえて述べると、私たちが前回ニューヨークを訪れたのはテロの前の2000年。その当時の地下鉄移動は、やはり「汚い」「危ない」といった感じがあった。しかし今回の利用では、そんな印象は受けなかった。その話をニューヨークに住んでいる友人に語ったところ、テロ以降、たくさんの人に来てもらおうと、ニューヨーク市全体で安全な街づくりに取り組んでいるという事情を教えてくれた。夜遅くならないように心がければ、地下鉄の移動もそんなに問題はないようだ。

マンハッタンをドライブしてみる?

 今回は仕事で郊外に行ったため、マンハッタンでドライブする機会を得た。マンハッタン内は、地下鉄と同じぐらい、タクシーが便利。すぐに捕まるし、基本料金$2.50程度と、値段も安い。しかし、このタクシー、かなり運転が荒いのだ。ということは、マンハッタンでの初心者が運転する場合、彼らタクシー運転手と”戦う”のはとても大変だ。急ブレーキ、急発進に、割り込みは当たり前。車線もあってないようなもの。道が分からなくて、ゆっくり走っていると、後ろからクラクションを鳴らされる。2日間、レンタカーを借りて運転したが、その中で2回ほど、ぶつかるところを目撃した。

 ニューヨークのタクシー

 おまけに、マンハッタンの道路は、基本的に一方通行のところが多く、1本曲がるところを間違ってしまったら、最低でも2ブロックは進まなくてはいけない。次に曲がるところを見落としてしまえば、行きたかった道に戻るのにすぐ迷ってしまう。ちなみに、日本のレンタカーのように、カーナビ(アメリカではGPSと言う)は、標準装備ではない(ただ都心部以外では、基本的にシンプルな道の多いでカーナビはそれほど必要ない)。

 夜のマンハッタンドライブ。綺麗だけど、危険も伴う!?

 とにかく、マンハッタンでの運転はかなりチャレンジだ。なので、「絶対にマンハッタンで運転したい!」というような目的がない限り、自分では運転せず、公共交通機関を利用した方がトラブルも少ないだろう。

 ブルックリンブリッジ。有料の橋が多いのですが、ここは無料

無料のスタテン島フェリー、利用しない手はない

 マンハッタンの最南端バッテリーパークと、海を挟んだ先にあるスタテン島を往復しているだけの無料フェリーがある。それは、その間にある自由の女神の正面を通るので観光に最適。このフェリーは元々、スタテン島に住んでいる人の通勤、通学のためのもの。だったら、朝と夕方だけでもいいのではと日本人は考えがちだが、日中も1時間に2本無料で運航している。自由の女神のあるリバティ島には立ち寄らないので、自由の女神に行きたいという人には物足りないかもしれないが、無料で正面から見ることができるので、「見ればいいや」という人や、1度リバティ島に行ったことがある人などにお勧めだ。

 私たちが乗ったスタテン島フェリー

 自由の女神正面。望遠で撮るとこんなに大きく写ります

 私たちも、前回のニューヨーク訪問でリバティ島に訪れていたので、今回は無料のフェリーを選択した。自由の女神目的で乗っている人が多いため、フェリーの到着ゲートから外に出ないで、出発ゲートに直行する人がほとんどだった。私たちは、街を散策しようと港から出て歩いてみた。しかし港周辺は、おみやげ物屋さんもなければ、レストランもほとんどなく、20分ほど歩いて、やっと見つけたサブウェイでランチをして、港に戻っただけだった。それでも、マンハッタンとはまったく違う田舎の港町を堪能できたので、今度時間がある時にでも、ゆっくり行ってみようと思う。

 いかがでしたか? 街を歩いているだけで、楽しいことに遭遇するニューヨーク。皆さんも、ニューヨークで文化の違いを味わってみてください。次回は、ニューヨーク郊外のドライブとアウトレットのお話をします。お楽しみに~。

 (写真:フォトアーティスト飯富崇生)

芦刈いづみ&フォトアーティスト飯富崇生のミニコラム:”I Love NY”のお土産日本でも良く見かける”I Love NY”グッズ。Tシャツやマグカップ、バッグなど様々なものがあるが、あれは空港や道端の露店で売っている。どれが本物というわけではないが、空港で売っているものの方が値段も高いので品物もいい。さて、露店の方だが、ニューヨークと言わずアメリカの観光地を歩いていると、どこでもここでも露店がある。Tシャツ2枚で10ドル。サングラス2個で5ドルなどなど、とにかく安い。だからついつい買ってみたくなる。”I Love NY”のTシャツも露店で買えば、2枚で10ドル程度だ。しかし、値段が値段だけあって2回ぐらい洗濯するとヨレヨレになってしまうので、買う時はそのつもりで。安いもので良いのなら露店で、しっかりしたものが欲しければショップでと、目的に応じて買うところを選んでみてもいいかも?

アクセス情報最寄の空港:JFK国際空港、ラガーディア国際空港、ニューアーク&リバティー国際空港。後者2つの空港は主にアメリカ国内線が発着する。JFK国際空港から、ニューヨーク市内までの所要時間は40~60分。タクシーを利用する場合は、一律45ドル(高速道路料金3.50ドル、チップは別)。*マンハッタンからJFK国際空港のタクシー利用の場合はメーター制。

2015/02/27 (Fri) Comment(0)

北京五輪の感動を迫力の映像で–マンダリンオリエンタル、TV観戦プラン

北京五輪の感動を迫力の映像で--マンダリンオリエンタル、TV観戦プラン 

 マンダリン オリエンタル 東京はこのほど、8月8日~24日までの北京五輪開催期間中、ゲストルームに設置された45インチ液晶フルスペックハイビジョンテレビにて観戦を楽しめる宿泊プラン「MOダイン&シネマ オリンピックスペシャル」を発売した。部屋タイプはデラックスルームとマンダリンスイートの2種類。料金はデラックスルームが6万9,000円(1室2名利用時の1室料金、宿泊税別)から、マンダリンスイートは13万9,000円(1室2名利用時の1室料金、宿泊税別)から。

デラックスルーム ツインタイプ

 同プランは、6つ星ホテルの広々とした上質なゲストルームで、五輪の感動を大迫力のインルーム エンターテイメントシステムにより堪能できるというもの。期間中は、45インチ液晶フルスペックハイビジョンテレビや、2.1chヴァーチャルサラウンドサウンドシステム、迫力の低音を再現するウーハーなどにより、臨場感あふれる映像や音で競技が楽しめるとのこと。

 宿泊者への特典としては、同ホテル2階イタリアンダイニング「ヴァンタリオ」のディナーブッフェ、もしくはインルームダイニングが付く。ほかにも部屋のミニバー利用、オンデマンド映画の視聴、フィットネスセンターの利用などが無料となる。また、2009年に開業を予定している「マンダリン オリエンタル 北京」の宿泊料金が半額となる優待券もプレゼントされるとのこと。

左がマンダリン オリエンタル 北京、右は中国中央電子台(CCTV)新本社 (イメージ)

2015/02/27 (Fri) 旅行 Comment(0)

日本の「端」を巡る旅 (18) 長崎(1)–世界に開かれた日本最先端スポット

日本の「端」を巡る旅 (18) 長崎(1)--世界に開かれた日本最先端スポット 江戸時代を世界につなぎ留めた”日本の窓”

 ”端”という言葉には、地理的な端っこだけではなく、時系列的なエッジ、つまり時代の最先端という意味もある。江戸時代、西洋に向けて唯一開かれた長崎という町は、まさに世界への窓であり、日本の最先端だった。

 長崎……すなわち江戸時代の日本と世界を結ぶ町。それを象徴的に示す存在といえば、やはり出島だろう。長崎の現代の玄関口といえば長崎空港であり、あるいは鉄道の駅であったりするわけだが、江戸時代の長崎の、いや日本という国の玄関口といえば、出島しかなかった。

 出島。この島の存在自体は、改めて説明するまでもないだろう。江戸時代はそのほとんどの期間で鎖国体制を敷いていたが、鎖国中も唯一の例外として西洋(オランダ)との貿易が許された場所が、ここ長崎出島である。子どもの頃から学校で教えられているだろうし、日本人ならまず誰もが知っている、超有名な歴史的地名といえる。

 けれどその実、ではその出島に行ったことがあるかと尋ねてみると、ないという人が意外に多いことと思う。それもまあ仕方がない。出島の史跡自体は古くからあったが、「出島」という島の形に即してある程度きちんと復元され、観光施設として訪れることができるようになったのは、ほんのつい最近のことなのだから。

 復元された長崎出島の東側入り口。出島は南側にゆるやかな弧を描く扇形をしており、東側入り口は島の南東端に当たる。青い建物は明治前期に建造された旧出島神学校で、日本最古のプロテスタント神学校

 東側入り口付近の外壁に復元された、南側護岸の石垣。左側はかつて海だった部分である。南側護岸は現在のところ約180mの長さにわたって復元されている

 上の写真のすぐそばに立つ案内板には、護岸石垣の位置に加え、出島の当時と現在の形を比較した地図も表示されている。現在の出島は、東西南の3方向は概ね当時の状態と等しいが、北側は大幅に削られているのがわかる

 出島は長崎の中心街のひとつ「新地」から程近いところにある。長崎を訪れたことがある人なら、中華街のそばだといえばわかりやすいだろうか。

 史跡としての出島の入り口は、東側(島の南東端)と西側(島の西端)の2カ所。中華街の北門・玄武門(新地橋のたもと)からなら、銅座川沿いに港方向へ5分も歩けば出島の東側入り口に到着する。

 長崎空港からバスで直接きた場合は、終点の長崎駅前まで行かず、手前の長崎新地ターミナルで降りるとベンリ。やはり徒歩5分ほどで着く。路面電車なら、出島の電停から西側の入り口(水門)がすぐそこだし、築町の電停からも東側入り口(旧出島神学校)が1、2分というところである。

 観光船が出る港や、ウォーターフロントの注目スポット・長崎出島ワーフからも近いし、オランダ坂も徒歩圏内。大浦天主堂やグラバー園、浦上天主堂といった有名スポット、さらにJR長崎駅にも路面電車でダイレクトにアクセスできる。長崎観光に行く機会があったら、江戸時代の日本の”端”に触れるためにも、新しくなった出島をぜひとも訪れてみてほしい。

 かつては島だった出島も、現在は市街地のただ中。周囲は埋め立てられ、島であった時代の面影はない。写真は東側入り口の手前から北方向を見ているところ。道路中央の舗装の色が異なっているところから左が当時の出島のエリアだった

 東側入り口から出島に入り、旧出島神学校を抜けると最初に目に入る出島のジオラマ、その名も「ミニ出島」。実際の約15分の1ということでけっこう大きく、当時の出島の様子をなんとなくしのぶことができる

2世紀を超える出島の歴史を感じる

 長崎出島の歴史を簡単に振り返っておこう。出島は江戸時代初期の1636(寛永13)年に完成した人工島である。長崎の南の海を扇形に埋め立て、キリスト教布教禁止に伴いポルトガル人を収容した。この翌年に島原の乱が起こった結果、幕府はポルトガル人の追放を決定。当然、出島からも追放され、代わりにオランダ人が日本との貿易を独占することになる。1641(寛永18)年、平戸にあったオランダ商館が出島に移転し、われわれの知る「オランダ人が出入りする長崎出島」の歴史がスタートした。

 時代は下り、幕末。アメリカ、イギリスをはじめとする列強各国との不平等条約締結によって横浜、神戸など日本各地の港が開かれ、”世界への窓口”であった出島の役割は事実上終了。1859(安政6)年、218年間の役目を終えてオランダ商館が出島から撤退した。

 明治に入ると、出島周囲の埋め立てが盛んに行われるようになる。最終的には1904(明治37)年、長崎港の港湾改良工事によって、出島の姿はこの世から完全に失われた。

 (上)出島北側の表門を、対岸の江戸町より撮影。手前に流れる中島川は、かつて出島と長崎の陸地を分ける海であり、”国境”のようなものだった。その上を出島と江戸町を結ぶ橋が架けられていた。なお、北側の表門は、当時よりやや南の位置に復元されている(右)表門のそばに立つ「バドミントン伝来之地」碑。日本で最初にバドミントンをプレイしたのは出島に住んでいたオランダ人だったらしい……

 さて、その出島、復元状況はどんな感じだろうか。出島の跡地は大正時代に国史跡に指定され、その後も建物の部分的な復元作業は行われていたが、長崎市による本格的な復元事業がスタートしたのは20世紀も終わりに近い1996年度のこと。往時の出島にあったオランダ商館および関連建築物の復元計画が策定され、3つの段階に分けて事業を進めている。

 その復元計画、現在は第1段階(島の西・北ゾーン)と第2段階(中央ゾーン)を終えたところだ。長崎市では第2段階まで終了した時点で、出島を一種のテーマパークのような史跡として2006年に新オープンした(国指定史跡としての名称は「出島和蘭商館跡」という)。

 長崎市による3段階の復元事業のうち第2期までが完成済みで、写真のように街角の姿もかなり再現された。往時の出島の姿が徐々に整いつつあることを実感できる

 ”カピタン”と呼ばれたオランダ商館長の事務所兼居所「カピタン部屋」をはじめ、当時の建物が続々復元され、気合の入った立て札も立つ(左)。カピタン部屋の内部は畳に洋風装飾と和洋折衷のスタイルだ(右)

 カピタン部屋のテラスは出島の南岸西側に臨む。当時はここから海が見えたのであろうが、現在は市街地の真ん中。路面電車が頻繁に行き交い、時代の移り変わりを感じさせるポイントだ

 そんなわけで、出島内の建造物については残すところ東・南ゾーンの第3段階のみで、実はかなりの部分が出来上がっている。にもかかわらず、現在の出島の姿は、正直やや物足りない。……何が物足りないか。やはりどうしても気になってしまうのは、現在の出島は「島ではない」ということだ。

 江戸時代当時はもちろん島だった。しかし埋め立て工事で周囲の海は失われ、現在の出島はまるっきり陸地の中にある。かろうじて当時の出島と陸地とを分けていた北側部分が中島川として運河のように残っているけれど、南側や東西側のかつて一面海であったはずの部分には、いまや海の面影が一切なく、ビルや住宅が建ち並び、路面電車と自動車がひっきりなしに走っている。

 現在の出島の感覚は、明らかに市街地の一部。”島”なのに海がない。町中に突然姿を現すその一角を「ここが出島ですよ」と言われても、どうしたって最初はやや興ざめがあるわけだ。

 島の中央付近に建つ「旧長崎内外クラブ」の優雅な姿。長崎の財界人や在留外国人らが社交の場として利用した建物だ。現在、内部は1階が素敵な休憩所になっており、2階にはマントルピースなど当時の部屋の様子が展示されている

 出島の西端部にある「水門」。貿易のために使われた門で、当時、門の前には荷船用の桟橋が設けられていた。現在ではこの脇が出島の西側入り口になっている

 水門近くの中島川に架かる橋の上から出島を望む。島の北西側から見ている格好だ。出島っぽさをいちばん感じられるロケーションではあるが、その向こうに放送局などのビルが建ち並ぶ光景は、やはりちょっと残念……

 しかし……思うのである、それも歴史というやつなのだな、と。実際に出島の中に入ってしまえば、いま現在の復元状況でも出島気分を味わい、歴史に思いを馳せることができる。それはそれで素敵な経験である。長崎市では2010年度までに第3段階(西側部分)の計画を遂行し、出島内の建物復元作業を完了させる予定。さらに将来的には、出島自体を当時の姿になるべく近づけるよう、周囲を堀で囲む計画だという。

 そのときこそ、江戸時代当時の扇形の”島”の姿が、時間を超えて21世紀へひょこっと顔を出すことになるだろう。ただし、こちらのほうは「長期計画」とのことなので、まだしばらく先になるかもしれない。

 長崎は西洋への窓口であったと同時に、中国にもっとも近い日本でもあった。古くから中国文化が真っ先に到達し、その影響を色濃く残す風物も多い。長崎新地中華街は日本三大中華街のひとつ(横浜、神戸と比べると規模は小さいが)。名物「角煮まん」を頬張りながら歩くのもよし

 出島の西端から西へ直線距離ほぼ100m、長崎港の出島岸壁に面して建つ「長崎出島ワーフ」。飲食店などが多数入居する人気のスポット

 最後に。本記事を書いたのは8月9日のこと。戦後63年の長崎原爆忌である。戦争や紛争が依然多発するこの地球。平和を求める長崎の声は、まだ世界に届かない。(写真は平和公園にて2008年7月中旬撮影)

 次回は長崎後編、龍馬が過ごした初物尽くしの町、をお送りします。

2015/02/27 (Fri) 旅行 Comment(0)

10人中6人は夏休みに旅行、旅費は二極化傾向に

10人中6人は夏休みに旅行、旅費は二極化傾向に  

 フォートラベルはこのほど、同社が運営する旅行総合情報サイト「旅行のクチコミサイト フォートラベル」にて行った、「2008年夏休みの過ごし方」の調査結果を発表した。調査期間は8月25日~9月19日まで、有効回答数は651人となっている。

 調査結果によると、夏休みに旅行に出かけると予定していた人は全体の67%、実際に旅行に行った人は62%だった。旅行を予定していたが中止した人の理由としては、「休みが少なかった」が最も多く17%、続いて「特に理由はない」が16%、「燃油サーチャージ高騰の影響で予算と合わなかった」「同行者との日程が合わなくなった」が14.9%となっている。

 夏休みは何をして過ごそうと検討していましたか?

 夏休みは何をして過ごしましたか?

 特に注目したい点は、燃油サーチャージ高騰の余波だ。「ガソリンや物価高騰の影響」を理由とした人が10%にも満たないことと比較すると、燃油サーチャージ高騰に対して旅行者がいかに反応するかがうかがえる結果となっている。

 また7~9月の間で取得した一番長い休みについては、「5日間」と答えた人が最も多く(17.5%)、旅行に出かけた人の休暇日数の平均は「8.8日間」、出かけなかった人は「6.9日間」という結果となった。これは旅行のために、前後にあえて有休を足して、長期休暇を設定した人が多いことが予想できる。

 さらに旅行費用についての調査では、海外旅行の平均は21万3,000円、国内旅行では5万8,000円とかなりの開きのでる結果となった。特徴としては、海外旅行では10万円台と答えた人が19.6%、国内旅行は3万円台が17.5%と比較的低い金額に集中しているにも関わらず、一方では海外旅行は50万円以上が7.6%、国内旅行においては10万円以上が14.3%と高額旅行が支持されていることで、平均予算がアップしていることが挙げられる。

 夏休みにかかった1人あたりの旅行費用:海外旅行

 夏休みにかかった1人あたりの旅行費用:国内旅行

2015/02/27 (Fri) 旅行 Comment(0)
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上原健二
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