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日本の「端」を巡る旅 (18) 長崎(1)–世界に開かれた日本最先端スポット
江戸時代を世界につなぎ留めた”日本の窓”
”端”という言葉には、地理的な端っこだけではなく、時系列的なエッジ、つまり時代の最先端という意味もある。江戸時代、西洋に向けて唯一開かれた長崎という町は、まさに世界への窓であり、日本の最先端だった。
長崎……すなわち江戸時代の日本と世界を結ぶ町。それを象徴的に示す存在といえば、やはり出島だろう。長崎の現代の玄関口といえば長崎空港であり、あるいは鉄道の駅であったりするわけだが、江戸時代の長崎の、いや日本という国の玄関口といえば、出島しかなかった。
出島。この島の存在自体は、改めて説明するまでもないだろう。江戸時代はそのほとんどの期間で鎖国体制を敷いていたが、鎖国中も唯一の例外として西洋(オランダ)との貿易が許された場所が、ここ長崎出島である。子どもの頃から学校で教えられているだろうし、日本人ならまず誰もが知っている、超有名な歴史的地名といえる。
けれどその実、ではその出島に行ったことがあるかと尋ねてみると、ないという人が意外に多いことと思う。それもまあ仕方がない。出島の史跡自体は古くからあったが、「出島」という島の形に即してある程度きちんと復元され、観光施設として訪れることができるようになったのは、ほんのつい最近のことなのだから。
復元された長崎出島の東側入り口。出島は南側にゆるやかな弧を描く扇形をしており、東側入り口は島の南東端に当たる。青い建物は明治前期に建造された旧出島神学校で、日本最古のプロテスタント神学校
東側入り口付近の外壁に復元された、南側護岸の石垣。左側はかつて海だった部分である。南側護岸は現在のところ約180mの長さにわたって復元されている
上の写真のすぐそばに立つ案内板には、護岸石垣の位置に加え、出島の当時と現在の形を比較した地図も表示されている。現在の出島は、東西南の3方向は概ね当時の状態と等しいが、北側は大幅に削られているのがわかる
出島は長崎の中心街のひとつ「新地」から程近いところにある。長崎を訪れたことがある人なら、中華街のそばだといえばわかりやすいだろうか。
史跡としての出島の入り口は、東側(島の南東端)と西側(島の西端)の2カ所。中華街の北門・玄武門(新地橋のたもと)からなら、銅座川沿いに港方向へ5分も歩けば出島の東側入り口に到着する。
長崎空港からバスで直接きた場合は、終点の長崎駅前まで行かず、手前の長崎新地ターミナルで降りるとベンリ。やはり徒歩5分ほどで着く。路面電車なら、出島の電停から西側の入り口(水門)がすぐそこだし、築町の電停からも東側入り口(旧出島神学校)が1、2分というところである。
観光船が出る港や、ウォーターフロントの注目スポット・長崎出島ワーフからも近いし、オランダ坂も徒歩圏内。大浦天主堂やグラバー園、浦上天主堂といった有名スポット、さらにJR長崎駅にも路面電車でダイレクトにアクセスできる。長崎観光に行く機会があったら、江戸時代の日本の”端”に触れるためにも、新しくなった出島をぜひとも訪れてみてほしい。
かつては島だった出島も、現在は市街地のただ中。周囲は埋め立てられ、島であった時代の面影はない。写真は東側入り口の手前から北方向を見ているところ。道路中央の舗装の色が異なっているところから左が当時の出島のエリアだった
東側入り口から出島に入り、旧出島神学校を抜けると最初に目に入る出島のジオラマ、その名も「ミニ出島」。実際の約15分の1ということでけっこう大きく、当時の出島の様子をなんとなくしのぶことができる
2世紀を超える出島の歴史を感じる
長崎出島の歴史を簡単に振り返っておこう。出島は江戸時代初期の1636(寛永13)年に完成した人工島である。長崎の南の海を扇形に埋め立て、キリスト教布教禁止に伴いポルトガル人を収容した。この翌年に島原の乱が起こった結果、幕府はポルトガル人の追放を決定。当然、出島からも追放され、代わりにオランダ人が日本との貿易を独占することになる。1641(寛永18)年、平戸にあったオランダ商館が出島に移転し、われわれの知る「オランダ人が出入りする長崎出島」の歴史がスタートした。
時代は下り、幕末。アメリカ、イギリスをはじめとする列強各国との不平等条約締結によって横浜、神戸など日本各地の港が開かれ、”世界への窓口”であった出島の役割は事実上終了。1859(安政6)年、218年間の役目を終えてオランダ商館が出島から撤退した。
明治に入ると、出島周囲の埋め立てが盛んに行われるようになる。最終的には1904(明治37)年、長崎港の港湾改良工事によって、出島の姿はこの世から完全に失われた。
(上)出島北側の表門を、対岸の江戸町より撮影。手前に流れる中島川は、かつて出島と長崎の陸地を分ける海であり、”国境”のようなものだった。その上を出島と江戸町を結ぶ橋が架けられていた。なお、北側の表門は、当時よりやや南の位置に復元されている(右)表門のそばに立つ「バドミントン伝来之地」碑。日本で最初にバドミントンをプレイしたのは出島に住んでいたオランダ人だったらしい……
さて、その出島、復元状況はどんな感じだろうか。出島の跡地は大正時代に国史跡に指定され、その後も建物の部分的な復元作業は行われていたが、長崎市による本格的な復元事業がスタートしたのは20世紀も終わりに近い1996年度のこと。往時の出島にあったオランダ商館および関連建築物の復元計画が策定され、3つの段階に分けて事業を進めている。
その復元計画、現在は第1段階(島の西・北ゾーン)と第2段階(中央ゾーン)を終えたところだ。長崎市では第2段階まで終了した時点で、出島を一種のテーマパークのような史跡として2006年に新オープンした(国指定史跡としての名称は「出島和蘭商館跡」という)。
長崎市による3段階の復元事業のうち第2期までが完成済みで、写真のように街角の姿もかなり再現された。往時の出島の姿が徐々に整いつつあることを実感できる
”カピタン”と呼ばれたオランダ商館長の事務所兼居所「カピタン部屋」をはじめ、当時の建物が続々復元され、気合の入った立て札も立つ(左)。カピタン部屋の内部は畳に洋風装飾と和洋折衷のスタイルだ(右)
カピタン部屋のテラスは出島の南岸西側に臨む。当時はここから海が見えたのであろうが、現在は市街地の真ん中。路面電車が頻繁に行き交い、時代の移り変わりを感じさせるポイントだ
そんなわけで、出島内の建造物については残すところ東・南ゾーンの第3段階のみで、実はかなりの部分が出来上がっている。にもかかわらず、現在の出島の姿は、正直やや物足りない。……何が物足りないか。やはりどうしても気になってしまうのは、現在の出島は「島ではない」ということだ。
江戸時代当時はもちろん島だった。しかし埋め立て工事で周囲の海は失われ、現在の出島はまるっきり陸地の中にある。かろうじて当時の出島と陸地とを分けていた北側部分が中島川として運河のように残っているけれど、南側や東西側のかつて一面海であったはずの部分には、いまや海の面影が一切なく、ビルや住宅が建ち並び、路面電車と自動車がひっきりなしに走っている。
現在の出島の感覚は、明らかに市街地の一部。”島”なのに海がない。町中に突然姿を現すその一角を「ここが出島ですよ」と言われても、どうしたって最初はやや興ざめがあるわけだ。
島の中央付近に建つ「旧長崎内外クラブ」の優雅な姿。長崎の財界人や在留外国人らが社交の場として利用した建物だ。現在、内部は1階が素敵な休憩所になっており、2階にはマントルピースなど当時の部屋の様子が展示されている
出島の西端部にある「水門」。貿易のために使われた門で、当時、門の前には荷船用の桟橋が設けられていた。現在ではこの脇が出島の西側入り口になっている
水門近くの中島川に架かる橋の上から出島を望む。島の北西側から見ている格好だ。出島っぽさをいちばん感じられるロケーションではあるが、その向こうに放送局などのビルが建ち並ぶ光景は、やはりちょっと残念……
しかし……思うのである、それも歴史というやつなのだな、と。実際に出島の中に入ってしまえば、いま現在の復元状況でも出島気分を味わい、歴史に思いを馳せることができる。それはそれで素敵な経験である。長崎市では2010年度までに第3段階(西側部分)の計画を遂行し、出島内の建物復元作業を完了させる予定。さらに将来的には、出島自体を当時の姿になるべく近づけるよう、周囲を堀で囲む計画だという。
そのときこそ、江戸時代当時の扇形の”島”の姿が、時間を超えて21世紀へひょこっと顔を出すことになるだろう。ただし、こちらのほうは「長期計画」とのことなので、まだしばらく先になるかもしれない。
長崎は西洋への窓口であったと同時に、中国にもっとも近い日本でもあった。古くから中国文化が真っ先に到達し、その影響を色濃く残す風物も多い。長崎新地中華街は日本三大中華街のひとつ(横浜、神戸と比べると規模は小さいが)。名物「角煮まん」を頬張りながら歩くのもよし
出島の西端から西へ直線距離ほぼ100m、長崎港の出島岸壁に面して建つ「長崎出島ワーフ」。飲食店などが多数入居する人気のスポット
最後に。本記事を書いたのは8月9日のこと。戦後63年の長崎原爆忌である。戦争や紛争が依然多発するこの地球。平和を求める長崎の声は、まだ世界に届かない。(写真は平和公園にて2008年7月中旬撮影)
次回は長崎後編、龍馬が過ごした初物尽くしの町、をお送りします。
日帰りで楽しむロンドン郊外の街 (2) ロンドン郊外の王室ゆかりの地を歩く
賑やかな大都会ロンドンをしばし離れ、今度はロンドンの郊外の長閑なエリアへ出かけることにしましょう。ちなみに、ロンドン中心部をインナーロンドン(Inner London)と呼ぶのに対し、ロンドン郊外はアウターロンドン(Outer London)と呼ばれています。今回は、ロンドナーも休日に家族連れで訪れる、アウターロンドンの緑あふれる人気エリア、グリニッジとリッチモンドをご紹介します。
まずは、グリニッジ。そう、「世界標準時」でおなじみの旧王立天文台(Old Royal Observatory)のある場所です。ロンドンの中心部からは、DLR(ドッグランズ・ライト・レイルウェイ)でカティー・サーク駅下車、または地下鉄やリバーボート(片道約1時間)で行くこともできます。
グリニッジにある旧王立天文台
テムズ河沿いに発展した河港都市のグリニッジは1997年に世界遺産に登録されています。テムズ河を背にして、正面に広がる丘全体がグリニッジ・パーク。観光客に人気のある場所ではありますが、同時に地元の人たちの憩いの場ともなっています。ピクニックをしたり、芝生に寝転んで読書をしたりと、それぞれ思い思いの時間を過ごしている地元の人たちを見かけることでしょう。小高い丘の上からはテムズ河対岸のドックランズを中心に、ロンドン市街を見渡すことができます。国会議事堂を燃やそうとした火薬陰謀事件にちなんだガイ・フォークス・デイ(11月5日)や大晦日に、花火を見て楽しむ人たちもたくさんいます。
天文台はグリニッジ・パークの緩やかな坂を登った丘の上にあります。グリニッジ標準時(Greenich Mean Time)を刻む24時間表示の時計は天文台の入り口近くの壁に埋め込まれています。その近くの足元には金属製の子午線(東経・西経0度)が埋め込まれていて、この線上に立ち、東半球と西半球をまたいで記念撮影をする観光客でいつもあふれかえっています。
グリニッジ旧天文台。訪れる観光客が後を絶たない
グリニッジ子午線を示す、オブジェ
(左)天文台のすぐ側に埋め込まれた、グリニッジ子午線(上)グリニッジ子午線。各国の主要都市の経度が記載されている
グリニッジ子午線をまたいでパチリ。ここではよく見られる光景だ
港町のたたずまい溢れるグリニッジは、昔から王室に愛されてきたエリア。かつて王室領であったグリニッジ・パークの敷地内には、旧王立天文台のほか、旧王立海軍大学、国立海洋博物館、クイーンズ・ハウスなどの王室にゆかりのある歴史的建築物があります。グリニッジのランドマーク的存在であったカティー・サーク号が2007年5月に炎上してしまったのは、記憶に新しいところ。テムズ河沿いに堂々と停泊していたカティー・サーク号は、中国からのお茶を運ぶ船として使われ、その役目を終えた後は、ここで博物館として航海時代の資料などが展示されていました。
普段から観光客の多いグリニッジですが、さらに多くの人たちで賑わうのが週末。BR(英国国鉄)グリニッジ駅からテムズ河岸にかけて、いくつものストリート・マーケットが開催されます。アンティークの他、ハンドクラフト、古着、本、日用雑貨などのストールが軒を連ね、隅から隅までじっくり見て歩くのは楽しいもの。私も根気よく回って、ここでお気に入りのアンティークのアクセサリーとティーストレーナー(茶こし)を見つけました。この宝物探し感覚が最高で、また次も掘り出し物を見つけに来よう、と思わずにはいられません。
一方、テムズ河の南西部に位置するリッチモンドは、昔から高級住宅地として知られるエリア。王室をはじめ、裕福な人たちがこぞって優雅な邸宅を構えていました。豊かな自然とテムズ河に囲まれたリッチモンドを一度訪れてみれば、なぜこれほど人気のある場所なのか、その理由がすぐわかるでしょう。
リッチモンドは、8つのロンドンの王立公園のうちの2つがある、なんとも贅沢なエリアだ。その1つが1,000ヘクタールというロンドン最大の公園、リッチモンド・パーク。その歴史は古く、かつてチャールズ1世が狩猟場として使っていたこともある場所で、その名残で今も鹿の群れが生息しています。まさに手付かずの自然がそのまま残された公園なので、人工的な日本の公園からは想像しがたいかもしれません。
グリニッジの天文台と同様、世界遺産として登録され(2003年)、世界中のあらゆるジャンルの植物を見ることができるキュー・ガーデンズ(王立植物公園)、ヘンリー8世ゆかりの宮殿、ハンプトン・コート宮殿もリッチモンドを代表する名所といえるでしょう。
ロンドン市民の憩いの場、キューガーデンズ
あひるの親子もキュー・ガーデンズをのびのびと歩く?
キュー・ガーデンズの温室、パームハウス
キュー・ガーデンズ。季節の花々が美しい
リッチモンドの中心部には高級住宅地に似つかわしく、高級ブティック店やおしゃれなショップ、レストランがあちこちにあります。近隣の人たちにも人気で、お洒落な雰囲気を味わえるでしょう。リッチモンドへは地下鉄や列車も出ていますが、リバーボートで行くのが1番楽しいかもしれません。夏季の限定で、テムズ河のウェストミンスター・ピアからリッチモンドへ向かうボートが運航しています(所要約1時間)。
グリニッジもリッチモンドも魅力的な街なので、丸1日かけて、のんびりと訪れてみてください。次回は、いよいよロンドンを飛び出し、学問の街ケンブリッジへ向かいます。お楽しみに!
出張中に行ける勝手気ままな私的世界遺産の旅 (21) ホーチミンより東南アジアを体感できるハノイを楽しめ(前編)
以前、ベトナム南部の経済都市ホーチミンシティ、中部の世界遺産群を紹介した。今回は、ベトナム北部にある政治の中心、首都のハノイとハノイから行ける世界遺産、ハロン湾についてお伝えしよう。
ハノイは首都とはいえ、人口ではホーチミンシティの約半分ぐらいと少ない。また経済都市として急激に変化しているホーチミンシティと比べると、古い文化を残しており、街全体がのんびりした雰囲気だ。以前、ホーチミン編で書いたように、ベトナムでは何かを買う際に、価格交渉は基本である。それはハノイでも同様なのだが、ホーチミンシティに比べると、ぼったくられる金額も少ない、もとい、割と現実的な値段から価格交渉がスタートするので(笑)、精神衛生上もわりと気分よく過ごせる街である。大きく変化する街特有の熱気に溢れたホーチミンシティも楽しいが、のんびりとした東南アジアらしい気分を味わいたいならば、ハノイの選んだほうが正解だろう。
ハノイ市内は、現在の経済の中心で、高層ビルが並んでいる新市街地の一部を除いて、高い建物も少なく、わりとのんびりとした雰囲気
ハノイ市内の様子。このあたりの道路では、歩行者よりも、自動車よりも、バイクや自転車に道の優先権があるらしい。日本と同じ感覚で歩いていると非常に危険
さて、フランスやアメリカなど、欧米文化の影響が強く残っているホーチミンシティと異なり、ハノイは中国文化の影響を受けた建物が多い。一方で、市街地の一部にはオペラハウスなど、19世紀の欧風建築も残っているなど、アジアとヨーロッパの交差点のような印象の街である。そのため、地域によって、中国・雲南省あたりの雰囲気を強く感じる場所、ヨーロッパ統治の名残を感じる場所など、さまざまな景色を楽しむことができ、そんな街をぶらぶらと散歩しているだけでもなかなか楽しめる。
中国の田舎町を思わせるハノイ市内の古い町並み。ベトナムでも北部は中国南部の影響を強く受けているため、町並みも食事もなんとなく中華っぽい
オペラハウスのあたりで、光景は、19世紀のヨーロッパ調へと一変する。建物をはじめ習慣、食生活に至るところまで欧州文化とアジア文化が入り交じって独自の文化を築いているのが、ベトナムの魅力だ
そもそもハノイは、紅河と呼ばれる川のデルタ(三角州)地帯にできた街である。ハノイを漢字で書くと「河内」、水の中に浮かぶ街なのである。現在でも、街のそこかしこに湖があり、水が多いことがハノイの、なんとなくのんびりした雰囲気をもり立ててくれている。中でも、観光の中心となるのが、ホアンキエム湖である。ホアンキエム湖の周囲には観光客が利用しやすいレストランや土産店などが並び、湖の周囲は遊歩道が整備され、夜にはライトアップされるので、観光の拠点としては最適なのである。
ハノイ観光の拠点、ホアンキエム湖。ぐるっと歩いても30分ほどで回れる湖の周りは遊歩道が整備されており、観光客だけでなく地元の人たちの憩いの場になっている
夜のホアンキエム湖は、中州にあるお堂「玉山祠」や周囲の街路樹がライトアップされて、非常に幻想的な雰囲気。周囲の道路から聞こえるクラクションの音と相まって、異国にいることを実感できる
このホアンキエム湖から続く旧市街地は、さまざまな店が建ち並び、地元住人にとっても、観光客にとっても、楽しく過ごすことができる地域である。もし、ハノイに滞在する時間が短いならば、ホアンキエム湖から旧市街地あたりにホテルをとっておき、周囲を散策するのが、限られた時間を楽しく過ごせるだろう。
ホアンキエム湖から旧市街地へと入っていくと、1車線か、2車線程度の狭い通り沿いにぎっしりと建物が並ぶ
活気のある旧市街地には、さまざまな商店が軒を連ねており、また行商の人もたくさん集まるところなので、ハノイの人々の生活の一端を見ることができる
さて、ホアンキエム湖から市街地のほうに入っていて、まず向かう先は1886年、フランス統治時代に建てられたハノイ大教会だ。このあたりには、ツアーなどを企画する旅行会社、観光客向けの土産店などが集まっているので、観光の拠点としては最適なのである。そして、中国風建築とは異なる、フランス統治時代の建物群が集まるのもこの地域である。この中国風とフランス風が入り交じる混沌とした雰囲気、それがハノイの魅力である。
(左)ぎっしりと商店が建ち並ぶ旧市街地に突如現れる大教会。この日は何かのお祝いだったらしくミサが行われていた(上)大教会の中は、このとおり、荘厳な雰囲気。もっとも、写真で見るほど堅苦しいイメージはなく、わりとリラックスしたほのぼのとした教会の中
旧市街地を散策したら、続いては、タイ湖に向かうことにする。ハノイの観光ポイントは、ホアンキエム湖からタイ湖の間にほぼ収まっているので、わかりやすい。この間はせいぜい3kmほどの距離なので、タクシーなどを使えばまったく問題なく移動できる。亜熱帯に位置するハノイは、緩やかながらも四季のある土地なので、冬期ならば気分よく歩いて移動することも可能だ。
旧市街地からホーチミン廟を抜けて歩いてくと、見えてくるのがタイ湖。ハノイはこのような小さな湖がいたるところにある、水の豊富な街である。やはり水のあるところというのは、なんとなく落ち着く
ベトナムの英雄、ホーチミン氏が眠るホーチミン廟。午前中の数時間、遺体は一般に公開されているので、朝早く行けばホーチミン氏の遺体を見ることができるらしい。僕は遠慮しておきました
ホーチミン廟の近くにあるのが、この一柱寺。ハノイは広いようで、見所はわりと集まっているので、観光するのにストレスが意外と少ない
タイ湖に浮かぶ小さな小島の中にある鎮武館。鎮武館は、タイ湖に浮かぶ小島の中に建立されている小さな建物。さしずめミニチュア中国といったところ
ベトナム語は、そもそも中国語やマレー語などの影響を受けて発達したこの地域独自の言葉であるが、フランス統治時代にアルファベットが割り当てられており、アルファベットに発音記号をつけた独特の表記
ハノイは、小さな街の中にさまざまな観光ポイントがあるので、自分なりにテーマを決めて散策するのがいいだろう。首都だけあって、博物館や資料館なども非常に多いし、買い物のスポットもたくさんある。僕は、旅行に行ったときには、その地方ごとの歴史や文化に触れるのが好きなので、次のようなコースをぶらぶらと回ってみた。
ホアンキエム湖からだとタクシーで15分ほどのところにある少数民族の歴史、文化などを紹介している民族学博物館。ベトナムには、北部の中国との国境付近の山岳地帯を中心に54の少数民族が暮らしているという
モン族など、日本でもお馴染みの少数民族の歴史文化などに触れられて、行ってみると意外と楽しい。なお、ハノイから2泊3日、3泊4日などで山岳部に暮らす少数民族を訪ねるツアーなども、ハノイ市内の旅行会社で申し込むことができる
こちらは、文廟。ベトナム最初の学校である。今のベトナム大学の前身といったところらしい
文廟の中では、ベトナムの民族音楽などを聞くこともできる。こうしたサービスを受けた時には、要求される前にチップを渡そう。無料のサービスなんて期待は禁物(笑)
こちらは、ハノイ市内にあるホアロー収容所。この建物、ベトナム統治時代はベトナム人を、ベトナム戦争時にはアメリカ人を収容していたというなかなか複雑な歴史を持つ。現在では、一部が保存されている
中はこんな感じ。いろいろな監獄や拷問の様子を伝えており、亜熱帯地方にいるのに背筋が寒くなる
まぁ、こんな感じでぶらぶらのんびりと歩くのが、ハノイ観光ではおすすめだ。他のベトナムの都市同様、公共交通機関はほとんど発達していない。だが、タクシーはすぐに拾えるし、ホーチミンあたりと異なり、明朗会計(笑)なので散策はしやすい。
夜は、ホアンキエム湖のほとりにある水上人形劇に行ってみてほしい。小一時間ほどの人形劇は、ベトナム語で進められるが、言葉などわからなくても、ベトナムの習慣などが反映されていて非常に楽しい
人形劇は1つの題材につき3分ほどで、20近くの劇が次々と演じられる。これを見ていると、ベトナムが水と農業に支えられていた国であることがよくわかる
さて、次回はいよいよハノイから日帰りでいけるベトナム一の景勝地、世界遺産のハロン湾についてお伝えする。
完成したての電車に乗ろう!
東日本旅客鉄道(JR東日本)新潟支社は10月11日、新潟県新潟市にある新津車両製作所を一般公開する。鉄道車両は専門製造会社から鉄道会社に納品されるが、同所は日本の鉄道事業会社として唯一、自社で本格的に電車を生産する工場として主にJR東日本の車両製造を担当しているという。イベント当日は、最新鋭のハイテク通勤電車E233系の製造工程が公開される他、様々な体験イベントも行われる。公開時間は10:00~15:30(入場は15:00まで)。入場は無料で雨天決行。当日はJR新津駅西口から無料シャトルバスが運行される。
新津車両製作所を一般公開
ミニ新幹線試乗会も開催
今回の一般公開の中で、注目すべきイベントの1つとして「完成電車の試乗会と電車生産工程の実演見学」が挙げられるだろう。このイベントでは、完成したばかりの電車の試乗や、長さ20mの車体を2台のクレーンで吊り上げるシーンの見学が可能。他にも電車のボディの組み立て作業、ロボットによる部品生産ラインも見学できるとのこと。
さらには、Nゲージ鉄道模型の運転、ミニ新幹線「Maxとき」の乗車、お子様サイズのJR制服を着用しての記念撮影も行われる。
できたてほやほやの電車に体験乗車できる
北京五輪の感動を迫力の映像で–マンダリンオリエンタル、TV観戦プラン
マンダリン オリエンタル 東京はこのほど、8月8日~24日までの北京五輪開催期間中、ゲストルームに設置された45インチ液晶フルスペックハイビジョンテレビにて観戦を楽しめる宿泊プラン「MOダイン&シネマ オリンピックスペシャル」を発売した。部屋タイプはデラックスルームとマンダリンスイートの2種類。料金はデラックスルームが6万9,000円(1室2名利用時の1室料金、宿泊税別)から、マンダリンスイートは13万9,000円(1室2名利用時の1室料金、宿泊税別)から。
デラックスルーム ツインタイプ
同プランは、6つ星ホテルの広々とした上質なゲストルームで、五輪の感動を大迫力のインルーム エンターテイメントシステムにより堪能できるというもの。期間中は、45インチ液晶フルスペックハイビジョンテレビや、2.1chヴァーチャルサラウンドサウンドシステム、迫力の低音を再現するウーハーなどにより、臨場感あふれる映像や音で競技が楽しめるとのこと。
宿泊者への特典としては、同ホテル2階イタリアンダイニング「ヴァンタリオ」のディナーブッフェ、もしくはインルームダイニングが付く。ほかにも部屋のミニバー利用、オンデマンド映画の視聴、フィットネスセンターの利用などが無料となる。また、2009年に開業を予定している「マンダリン オリエンタル 北京」の宿泊料金が半額となる優待券もプレゼントされるとのこと。
左がマンダリン オリエンタル 北京、右は中国中央電子台(CCTV)新本社 (イメージ)