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<仏外相>中国主導銀、参加示唆
日仏の外務・防衛閣僚会合(2プラス2)のために来日中のファビウス仏外相は14日、東京都内で記者会見し、中国が設立を主導する国際金融機関、アジアインフラ投資銀行(AIIB)について「フランスとしても全く関与しないというのではなく、どういう形で参加できるのかということを検討中だ」と述べ、国際ルールの順守など一定の留保を付けつつも参加に前向きな姿勢を示した。
AIIBについては英国が主要7カ国(G7)で初めて参加を表明している。ファビウス外相は「インフラ整備への資金提供は必要不可欠」とAIIBの役割を評価する一方、「フランスとしては、国際的なルールに沿った組織になるのかをクリアにしてほしい」とも強調。参加表明には、まだハードルがあるとの認識も示した。【米村耕一】
野生パンダにかまれて大けが、村民に当局が賠償1010万円―中国甘粛省
中国西部、甘粛省隴南市文県に住む70代の村民が昨年3月、野生のジャイアントパンダにかまれ、大けがをしたことを受けて、甘粛省林業庁や文県林業局、白水江国家級自然保護区管理局はこの村民に対し、計52万元(約1010万円)の賠償金を支払った。村民は右足をかまれ、これまでに8回の手術を受けたという。中国新聞網が13日伝えた。
報道によると、この村民は昨年3月1日、農作業をしていた時に林業局関係者と動物保護関係者に追われていたパンダに右足のすねをかまれ、動脈断裂や骨折などの大けがを負った。
村民らは賠償をめぐって話し合いを持ったが不調に終わり、結局村民が3組織を提訴。最近になって3組織が計52万元を賠償することで話がまとまった。
(編集翻訳 恩田有紀)
<ミャンマー軍>中国側誤爆…住民13人死傷 対武装勢力
【北京・隅俊之】中国国営新華社通信などによると、ミャンマーとの国境地帯にある中国・雲南省臨滄(りんそう)市耿馬(こうば)タイ族ワ族自治県の農村に13日午後、ミャンマー軍機の爆弾が着弾し、サトウキビ畑で農作業をしていた住民4人が死亡、9人が負傷した。中国国境に近いミャンマー北東部シャン州コーカン地区ではミャンマー国軍と少数民族コーカン族の武装勢力との戦闘が続いている。激化する武力衝突が中国にも飛び火した形で、国境地帯の緊張が高まっている。
中国外務省の劉振民(りゅう・しんみん)次官は13日夜、駐中国ミャンマー大使を呼び出し、「国境地帯で戦闘が続き、爆弾が中国領内に落ちて罪のない市民が死傷した」と厳重な申し入れをした。中国空軍の申進科報道官は14日、「多数の戦闘機が編隊を組んで国境近くを飛行するミャンマー軍機を監視し、(領空外へ)遠ざけた」と述べ、監視態勢を強化していることを明らかにした。
国際情報紙、環球時報(電子版)によると、ミャンマー軍機は13日夕までに中国領内に4回侵入し、爆弾3発がサトウキビ畑に落ちたという。中国外務省によると、8日にも中国領内に爆弾が落ち、家屋に被害が出た。
コーカン地区では、2月上旬から同地区の奪還を目指すコーカン族武装勢力とミャンマー国軍が激しく交戦。ミャンマー政府は同地区に非常事態を宣言し、武装勢力への空爆を行っている。多数の難民が発生し、中国側によると、6万人以上が中国に逃れている。
コーカン族は中国系の少数民族で、中国の住民の間にはコーカン族に同情的な意見もある。ミャンマー政府は、中国人がコーカン族武装勢力に加わっていると指摘。ただ、中国側は否定している。中国政府としては、中国側に被害が出たことに強い態度を示しつつ、ミャンマー政府との関係悪化は防ぎたい考えとみられる。劉次官は4日、ミャンマー側の当局者と会談し、「中国は一貫してミャンマーの主権と領土保全を尊重する」と述べ、双方に自制を求めていた。
日韓は「独仏と異なる」=歴史問題で見解―仏外相
フランスのファビウス外相は14日、東京都内の仏大使公邸で記者会見し、フランスとドイツを引き合いに、日本に歴史認識での反省を求めた韓国外務省当局者の発言に関し、「(仏独と)アジアでは取り巻く状況も地理的条件も異なることを忘れてはいけない」と述べ、単純に比較できないとの見解を示した。
ファビウス外相は「仏独は(歴史上)互いを侵略したが、第2次大戦終結を機に和解した。今では世界で最も仲の良い国だ」と強調。「そこから何か感じてもらえると思う」と語った。
四川大地震を体験した中国人女性がつづった、「日本頑張れ」の思い
東日本大震災から4年が経った2015年3月11日、テレビ番組やメディアでは例年通り特集が組まれ、関連の追悼行事も行われた。震災当時、日本だけでなく、世界中の人がその被害の状況に言葉を失った。自らも2008年に起きた四川大地震を体験した上海海洋大学の楊恒悦さんは、被災した日本人への思いをつづった。
【その他の写真】
私はその日を永遠に忘れられない。2008年5月12日、普段と変わらない普通の月曜日だった。午前、全てはいつものように過ぎていた。昼ご飯はいつものように知り合いの顔さんと食べた。そしていつものように昼寝をした。午後2時20分、目覚まし時計で目覚めた。その音もいつものように嫌だった。窓の外では、晴れていた空が雲で覆われていた。その8分後に、ここでどんな残酷なことが起きるのか、誰も知らなかった。
2011年の3月11日午後、私はインターネットをしている時、日本で地震が起こったというニュースを見た。日本では、地震は普通なことではないかと思った。間もなく、この地震について、凄まじい勢いで報道された。これは大変なことが起きたに違いないと私は思った。インターネットで震災現場からの写真を見て、私は大きなショックを受けた。3年前(2008年)の画面が映画のように脳裏に浮かんできた。
当時、私は一人でアパートの7階から逃げた。壁は目の前でバリバリと裂け、アパートの階段も、手すりも、壁も大きな力を受けて曲がってきた。人間は危険を前にする時、自分の極限まで必死にもがく。その時はただ、生きたいという欲望だけだった。
私は東日本大震災の写真を見続けた。倒れた家屋、海の巨大な渦に巻き込まれている汽船、津波に襲われた村、燃え盛る炎に包まれる工場・人間。科学技術がこんなに発達している日本でさえ、自然災害の前には手の施しようがない。一枚の写真を見た時、私は思わず涙ぐんだ。それは「地震後家族を探している女の子」とタイトルが付いてる写真だった。その女の子は手に携帯を握り、頬には一粒の涙がかかり、不安でいっぱいの目をしていた。
私が被災した当時は、父にも母にも全然連絡できなかった。学校に避難した私は、突然、後ろから何より親しい声を聞いた。母だった。私は母に飛びついた。何も言えずに私たちはただきゅっと抱きしめ合った。母は「よかった。あなたはもう死んだと思った」と言った。私のために泣いている母を初めて見た。幸い家族のみんなは全員見つかったが、私がどうしても信じられなかったのは、昼休みに会ったばかりの顔さんとの永遠の別れだった。…