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ベビー あすデビュー
札幌市円山動物園で昨年12月21日に誕生したホッキョクグマの赤ちゃんが、4月1日から一般公開される。31日午前、報道陣に事前公開され、愛くるしいしぐさを見せていた=写真、上甲鉄撮影=。
これまでに、国内最多となる7頭の繁殖に成功したララ(雌、20歳)の8番目の子どもで、500グラムほどで生まれた赤ちゃんは、約15キロ・グラムまでに育った。性別は不明で、夏頃までにDNA検査を行い、愛称も来園者の投票で決定する。
一般公開は当面、午前10時から午後3時まで。
戦死者印鑑遺族へ届く
- 「よく見つけてくれたね」。遺品を受け取り、学生らに感謝する灰原信之さん(右)(29日、久米南町で)=片岡航希撮影
- 沖縄県糸満市で見つかった灰原利雄さんの印鑑=片岡航希撮影
- 灰原利雄さん
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◇久米南・灰原さん
太平洋戦争末期の沖縄戦に従軍し、26歳で戦死した久米南町出身の灰原利雄さん。最期の地で見つかった印鑑が29日、同町の遺族へと届けられた。戦後生まれのおい、信之さん(68)にとって、思いがけず受け取った遺品は、70年の時を経て初めて叔父と邂逅(かいこう)するきっかけとなった。(望月尭之)
■激戦の末の死
利雄さんは1944年11月、中国から沖縄に転戦。沖縄防衛を担う第32軍で、兵器を供給する第32野戦兵器廠(しょう)に所属した。45年4月に上陸した米軍の猛攻に遭い、32軍は糸満市まで南下。日本側だけで、犠牲者は民間人も合わせて二十数万人に上る。
戸籍などによると、利雄さんが同市で亡くなったのは6月20日。その3日後には軍司令官が自決し、事実上、日本軍の組織戦は終結しており、利雄さんがギリギリまで戦闘に参加していたことがわかる。
生前の利雄さんを知る近くの中力政子さん(86)は「私たちが夕方まで遊んでいると、『早く家に帰りなよ』と優しく語りかけてくれた」と振り返る。「これで灰原さんのお宅も、終戦を迎えることができたのではないかと思う」
■肌身離さず
「灰原」と刻まれた印鑑は、「ガマ」と呼ばれる壕(ごう)の入り口付近の土中に埋もれていた。給料を受け取る際の押印のために、戦場でも必要だったらしく、亡くなる直前まで大切に持っていたことをうかがわせた。
立命館大1年市場涼さん(19)ら調査にあたった学生ら9人から印鑑を受け取ると、信之さんは楕円(だえん)形に彫られた名字をみつめ、目を潤ませながら「ありがとうございます」と感謝した。
その後、学生らと近くの墓所に向かい、花とともに印鑑を手向けると、信之さんは「叔父さん、やっと帰って来れたな。またゆっくりと時間がある時、沖縄のことや子どもの頃のことを教えてください」と静かに語りかけた。
■語り継ぐ戦争
学生らは、戦没者の遺骨収集にあたるNPO法人などに所属している。メンバーの一人、国学院大4年今泉ゆりかさん(22)は「終戦から何十年もたつのに、まだ故郷に戻れない遺骨がたくさん残り、それを待っている遺族がいる。印鑑も70年もの間、誰かに見つけてもらうのを待っていたと思う」と涙を浮かべた。
市場さんは「まだ戦地には眠ったままの戦没者が大勢いる。これからもできる限りのことをし、同世代やもっと若い人たちにも参加を促していきたい」と決意を新たにしていた。
「志村けんの木」に本人直筆の看板=東京都東村山市
志村さんが書いた記念樹の看板。故郷のまち東村山市の駅前にお目見えした
人気コメディアン志村けんさんの生まれ故郷、東京都東村山市の駅前に、志村さんが書いた記念樹の看板がお目見えした。「東村山音頭」でまちの名を全国に広めた功績をたたえ、1976年にケヤキの若木を「志村けんの木」として植樹。市制50周年を迎え、直筆のプレートを作りたいとの渡部尚市長の申し入れに、志村さんがペンを執った。
看板は、西武東村山駅東口の交番横に立つ3本のケヤキのそばにあり、縦30センチ、横40センチほどの大きさ。アルミ加工を施した金属製の青いプレートに、志村けんの木と書いた本人の筆跡を刻印した。
植樹から既に40年近く、「志村けんの木」は立派な大木に成長した。ケヤキは東村山市の木でもあり、市企画政策課では「新しい名所として皆さんに親しんでもらいたい」と話していた。【もぎたて便】
教育の活性化へ 2短大連携協定
中日本自動車短大(坂祝町)と大垣女子短大(大垣市)は、両短大の教育の活性化を図るための連携協定を結んだ。相互の教育・研究交流を通じて学生の視野を広げ、学習意欲を高めることなどが狙い。
具体的には、中日本自動車短大の車体整備専攻の学生らが制作した実習車両やレース車両に、大垣女子短大デザイン美術科学生の描いたデザインを塗装。完成後は、両校の学園祭などで披露する。また、大垣女子短大の学生が、中日本自動車短大の科目を履修し、単位を取得できるようになるという。
中日本自動車短大で行われた協定の締結式では、大垣女子短大の中野哲学長が「連携の強化で教育の質を高めたい」、中日本自動車短大の山田弘幸学長は「連携により、学生が新たな視点で学習していけるようになることを期待したい」とそれぞれあいさつし、握手を交わした。
瑞陵高の旧講堂 耐震工事終え歓喜の復活
名古屋市瑞穂区の県立瑞陵高校の旧講堂「感喜堂」の工事が終わり、30日、大村秀章知事と名古屋市の河村たかし市長が視察した。
感喜堂は1924年に、旧県商業学校の講堂として建設され、県立高校の講堂としては最も古いという。面積約430平方メートル。その後、4校が統合し瑞陵高校の講堂、図書館、定時制の食堂として使われた。耐震性が低いとして取り壊しが検討されたが、同窓会などが保存を求め、昨年7月から改修工事が始まった。
内部に柱や梁などを新たに設け、外観も当時の写真や壁に残った塗料から、外壁は灰色、内装はうぐいす色と白色を基調に明るい雰囲気となった。今後、定時制の食堂のほか、集会や自習室などとして使う予定。