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豊橋工「全力でプレー」
大阪市内で13日に行われた選抜高校野球大会の組み合わせ抽選で、初出場の豊橋工は1回戦の最後に登場。大会第6日第1試合で東海大四(北海道)と対戦することが決まった。大会は21日に開幕する。
豊橋工の中村亮太主将は「自分たちは投手を中心に、守りでリズムを作るチーム。相手は強豪だが、しっかり自分たちの野球を見せたい」と意気込んだ。林監督は「選手全員が全力でプレーし、少ない好機をものにしたい。一戦必勝。笑顔でプレーしたい」と語った。
東海大四の宮崎隼斗主将は「大舞台に萎縮せず、大暴れしたい。全員で勝ちをつかみにいく。試合までしっかり準備したい」と力を込めた。大脇監督は「手ごわい相手。まずは自分たちがどういう野球ができるか。投手を中心に守りを固め、逃げ切りたい」と話した。
復興願う歌声 宮城で心一つ 西宮の合唱団共演へ
東日本大震災の被災地の宮城県名取市で16日、西宮市のグループが出演する復興コンサートが開かれる。グループには阪神大震災を経験した人も多く、東日本の被災者とともに復興への思いを歌声で届ける。関係者は「経験者同士で心を通わせ、心が豊かになる一時を過ごしたい」と練習に励んでいる。(河部啓介)
県内から出演するのは、西宮市で旧文部省唱歌を学ぶ「唱歌の学校」心のうた合唱団の50~80歳代のメンバー約30人。
同グループは元大阪フィルハーモニー交響楽団補助指揮者の泉庄右衛門さん(73)と、妻で声楽家の規子さん(57)が阪神大震災後の1996年に開校。自らも被災した泉さんが、西宮市の規子さんの実家倉庫跡にスタジオを作り、震災で傷ついた人たちの心を歌の力で癒やしてきた。今回、時間がたった今だからこそ心の支援が必要だとして、別の団体に働きかけて実現した。
コンサートは、名取市文化会館中ホールで開催。同グループが「早春賦」など、宮城県岩沼市で震災直後の5月に結成した合唱団「岩沼童謡クラブ」が「春がきた」などで歌声を響かせる。その後、家族を津波で亡くした地元の被災者らがピアノの伴奏で「うぐいす」「私のカモメ」を披露。フィナーレは「ふるさと」「上を向いて歩こう」などを全員で歌う。
同グループのメンバーで、西宮市の自宅内が壊れるなどした野田佳子さん(83)は「歌っている時だけでも楽しい思いに浸ってもらえたら」と願う。また、被災後、出向先の会社で住宅相談に奔走した宝塚市の桜井寿郎さん(80)は「震災4年後の自分がどうだったかを思い起こしながら、頑張ってほしいとの思いを伝えたい」と力を込める。
メンバーは震災で被害を受けた場所も見て回る予定。大阪府吹田市の田中照子さん(77)は阪神大震災時、芦屋市の友人からかけられた「被災地に足を運び、見ていてほしい」という言葉が忘れられないといい、「東北のことも忘れず見守り続けたい」と言う。
泉さんは「音楽の楽しさを精いっぱい伝え、みなさんが明るい表情を見せてくれれば」と話している。
金沢城公園 彩られ開業待つ
金沢城公園(金沢市)の玉泉院丸庭園で13日、ライトアップの点灯式が行われた。石垣や木々が幻想的に浮かび上がり、訪れた多くの人たちが見入っていた。
ライトアップは、夕焼けから宵、夜更けを感じさせる柔らかな光で庭園全体を照らした後、春や桜をイメージしたピンク、紫色などのグラデーションに変化する。ライトアップ中は琴や尺八の曲が流れる。
時間帯は、日没から午後9時。今後、金、土曜などを中心に年間約150日間行われる。入場無料。問い合わせは県金沢城・兼六園管理事務所(076・234・3800)。
国の登録文化財に7件
国の文化審議会が13日に行った答申で、県内から登録有形文化財(建造物)として名古屋市東区の日本陶磁器センターの旧館と新館や、同区にあるカトリック教会の名古屋カテドラル聖ペトロ聖パウロ大聖堂(布池教会)など7件が選ばれた。今回の登録で、県内の登録有形文化財(建造物)は425件となる。
日本陶磁器センター旧館は1934年に建築。外壁や内装に多くの陶磁器タイルが使われている。戦前は、輸出用陶磁器製品の品質確保を行う場として使用され、現在も日本陶業連盟の事務所にあてられている。
名古屋カテドラル聖ペトロ聖パウロ大聖堂は61年に建設された。ゴシック建築を基調とした荘厳な建物で、コンクリートの打ちっ放しが特徴。
また、犬山市の城下町に大正時代に建てられた旧小守家住宅主屋、新城市の大正後期の旧料亭「菊水」、大府市の大倉公園内にある休憩棟と茅葺(かやぶき)門も選ばれた。
96年に導入された登録文化財制度は、建築後50年が経過し、歴史的景観に寄与している建造物が対象。国宝・重要文化財とは異なり、外観を残せば内部の改修ができるなど、文化財を活用しながら保存できる。
<大阪大空襲70年>炎の街 ひたすら逃げた
- パソコンを使って講演活動を続ける樋口さん(吹田市で)
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◇樋口さん「体動く限り語る」
1945年3月13~14日の第1次大阪大空襲に遭った吹田市の樋口良次さん(82)が、体験を語る講演活動を続けている。空襲で校舎が被災し、できなかった卒業式を2011年に開いたのを機に、語り部になった。約4000人が犠牲になった第1次の大空襲から70年。「当時を知る人は年々、減っている。体が動く限り続けたい」と話している。(鷲尾有司)
樋口さんは当時、大阪・船場でたばこ店を営む両親と3人暮らしで、久宝国民学校の6年生だった。滋賀県に集団疎開していたが、1945年3月14日の卒業式に出席するため、自宅に戻り、大空襲に遭った。
13日深夜、サイレンが鳴り響き、焼夷(しょうい)弾が降り注いだ。自宅に火が燃え移り、逃げる際、両親とはぐれた。「梅田の方は大丈夫らしい」。人の声を頼りに御堂筋を北へと向かった。焼夷弾が当たったり、火災で生じた強風に飛ばされたりして倒れた人々の姿があった。「これは死ぬな」。運を天に任せる気持ちで、ひたすら走った。
地下鉄淀屋橋駅に逃げ込み、動いていた電車に乗って梅田へ。朝を待って父の友人が住んでいた滋賀県彦根市に避難し、両親と再会することができた。だが、校舎は焼け落ち、卒業式は開けないまま時が過ぎた。
樋口さんは、システムエンジニアとして働き、コンピューターのデータ処理を行う会社を経営。約10年前に引退後、久宝国民学校のことを調べ始めた。現在の開平小学校(中央区)に統合されていることがわかり、学校に事情を説明すると、卒業式を開いてもらえることになった。2011年3月の卒業式には、同窓生約10人が集った。
式をきっかけに、同小から「子供たちに空襲の体験を話してほしい」と頼まれた。炎に包まれた街を逃げ回った空襲のこと、疎開で家族と離れて暮らしたこと……。戦争体験を話すのは初めてだったが、記憶をたどりながら、児童に語りかけた。「誰にも言えなかった胸の内を話すことができて心が晴れる気がした」
その後、府内の小中学校や高校などから講演の依頼が寄せられるようになった。語り部の活動を行う団体にも入った。
講演では、得意のコンピューターの技術を生かし、プロジェクターで当時の写真を映したり、音楽を加えたりして工夫を凝らす。「わかりやすい」と好評で、これまでに60回を超えた。
語る内容は日々更新している。「実体験だからこそ伝えられることがあるはず。平和のために何かできることがないかを考えるきっかけにしてほしい」。そんな思いで今日もパソコンに向かっている。
◇節目の日 級友集う 旧堀江国民学校の10人
- 同窓会で慰霊碑を囲む卒業生たち(大阪市西区で)
大阪大空襲で校舎が焼失し、卒業式を開けなかった大阪市立堀江小学校(旧堀江国民学校)の当時の6年生約10人が13日、同市西区の和光寺で同窓会を開き、元級友との再会を喜んだ。
戦後70年の節目の日に集まろうと、同市北区の会社社長、瀬戸寛治さん(82)が呼びかけた。
同小には推定約200人の6年生が在籍。3月14日が卒業式だったため、集団疎開先の島根県から帰省し、犠牲になった児童もいたという。
参加者たちは、寺にある空襲の犠牲者を悼む碑や、当時の写真などを見ながら、思い出を語り合った。学校前で実家が文具店を営んでいたという、兵庫県伊丹市の佐藤百合子さん(82)は「堀江は上品でいい町だったが、空襲でみな焼けてしまった。戦争があったことを若い人たちに忘れてほしくない」と語った。
瀬戸さんは「私たちは戦争を覚えている最後の世代かもしれない。こうして昔の仲間が集まれる機会は貴重」と話していた。
- 同窓会で慰霊碑を囲む卒業生たち(大阪市西区で)